日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ビドル提督の浦賀来航

♦ アメリカ政府のビドル提督宛て指令書

アメリカ東インド艦隊のジェームス・ビドル提督(ビッドルとも)が、ポーク大統領下のアメリカ政府、ジョージ・バンクロフト海軍長官から受けていた1845年5月22日付けの指令書(典拠:最下段)は、

特別な態度を以て、若し日本の何れかの港が入港可能か、最大限注意深く確かめること。若し公使(筆者注:アレクザンダー・エヴェレット)がその地(筆者注:日本)に行くべく行動しようとする時は、その目的のため、貴艦隊を公使の意向に従い指揮すること。若し公使がそうしない場合、貴官が適当と判断するならば、辛抱強く、また敵愾心や合衆国政府への不信感を煽ること無く、自身でその目的を遂行すべし。

と指示していた。エヴェレット公使が日本に行かなければ、ビドル自身が日本に行き、開港し貿易をする気があるか確認し條約を結ぶべし、との指令書だ。

こうした指令書に基づき、支那への公使・アレクザンダー・エヴェレットの委嘱を受けたビドル提督は、1846(弘化3)年7月20日、「74門砲艦」・コロンバス号(2520トン)とヴィンセンス号(710トン)を引連れ浦賀に碇を下ろした。若し長崎に行けばオランダとの間に問題が出る可能性があり、意思決定機関のある江戸から離れすぎている。浦賀なら江戸に近いから良かろう、というビドル提督の判断だった。

♦ 浦賀奉行の対応

コロンバス号とヴィンセンス号入港の報告を受けた浦賀奉行は、早速月番の与力とオランダ通詞・堀達之助を船に送り、その国名や来航目的を聞き糺した。そしてビドルは、アメリカ合衆国は日本と交易を望む事を伝えてきた。

指示を仰ぐ浦賀奉行・大久保因幡守と一柳一太郎へは、閣老・阿部伊勢守と青山下野守の連名で、「渡来の異人共へは諭書の通り、国法によりどの国とも通商はしないから、兎に角早々に帰帆すべく取計るように」との指示が出された。更にまた、川越藩や忍藩など海防に責任を持つ藩に指示が出され、多数の武装した侍達が防禦体制をとった。この時浦賀奉行は、平和裏に話を進める都合上アメリカ船から一時的に武器類の提出を求めたが、ビドル提督は即座に拒否をしている。

当時幕府は、イギリスとのアヘン戦争による支那の敗北などに学び、文政8(1825)年に発令した外国船追放の 「無二念打ち払い令」 を緩和し、天保13(1842)年に異国の遭難船には薪水・食料を与える 「薪水給与令」に改めていた。従って浦賀奉行は幕閣の許可の下、望み通り必要な水、食料、薪などを与え、諭書の通り帰帆すべく通達した。その諭書いわく、

我国と交易したいとの願であるが、新に外国との通信通商は堅い国禁で許されないから、早々に帰帆すべし。先年よりつどつど通商を願う国々があったが、許していない。貴国も同様であり、今後幾度来て願っても無益である。勿論外国の事は長崎で扱うのが国法であり、当地は外国の事を扱う場所ではないから、願い事があっても事が通じないので、再びここに来てはならない。

と書かれていた。今回は遭難船ではなく、先方から通商を求めてやって来たのだからと、薪水、食料の供給量を減らす考えもあった。しかしビドルから、充分な水が貰えないなら自分達で調達するとの強いコメントが出て、あわてて必要量を追加する一幕もあった。この時に与えた薪水食料は、水:2千石、松薪:5千本、梨・杏・りんご・大根・ナス・その他野菜:多数、卵:2500個、鶏:424羽、米・小麦・砂糖、等々かなりの物量に上るが、対価を受け取らず、全て無料で渡した。

♦ オランダ語通詞・堀達之助の英語への対処

堀達之助はもともとオランダ語の通詞だが、英語の勉強にも力を入れていた様だから、既にかなりの意思疎通が出来たのだろうか。この時話し言葉でどの程度意思疎通が出来たのか、筆者には全く分からない。しかし堀達之助は、ビドル提督が日本側の要求により改めて書翰として提出した来航目的を伝える1846年7月20日即ち弘化3年閏5月27日付け英文書翰を翻訳している。いわく、「その次第は、支那同様御当地に於いても交易の道を開き願わん為に御座候。若し御免しの御沙汰を蒙り候わば、日本通商の儀は御国法通り相守り申すべく、我が政府に於いても差し上げ奉り候本文の趣意通り通信致したき存念に御座候。」と言うものである。ビドルは併せて文中に「本文」と述べる、ポーク大統領の国書とおぼしき日本文をも提出している。この日本文は、1845(弘化2)年4月16日付けでポーク大統領とジェームス・ブキャナン国務長官が署名し、通商条約を結びたいと述べたものの様だが、残念ながら筆者には意味が良く分からない。

更に、1846(弘化3)年7月27日付けでビドル提督が幕府向けに出した、「外国との通信通商は許さないという書簡を受け取ったので、順風次第に退帆する」と述べる英文書簡を直接日本語に翻訳し、「右はオランダ語ではないので、大意の翻訳を致しました」と注釈を付け訳文を提出している(東京大学史料編纂所、維新史料綱要データベース、弘化3年6月5日、「米国艦隊司令官書翰」)。従って堀達之助は、かなりの読解力があった様だ。しかし、直接の会話にはオランダ語のできる艦隊乗り組員を介した気配もあるが、双方の理解は万全ではなく、下に書くようなハプニングも起こった。堀達之助はまた、7年後にペリー提督が浦賀に来た時も最初の通詞をも務めた。

♦ ビドル提督の我慢

この幕府の諭書、すなわち公式な返書を陸上で渡すから受取りに来いというのが日本側の要求であったが、当初ビドル提督は船に持参するよう促した。しかしその遣り取りの最中に、日本側の通訳のまずさとアメリカ側の理解や確認不足もあり、ビドルは日本側の船で受け取るべく正装して自国のボートに乗り移り、近くの高位の役人が乗っていると思しき立派な日本船に乗り移ろうとした。立派な船は川越藩の警護船で、突然の乗船にびっくりした川越藩士は、ビドルの胸を激しく突いてアメリカのボートに押し返した。憤然としたビドル提督は、通詞の掘達之助を呼んで厳しくこの無礼に抗議し、浦賀奉行もすぐこの落度を謝罪し、無礼をはたらいた侍を厳しく罰すべく約束した。1846(弘化3)年7月31日付けの、「日本近海にて」と記すビドル提督からバンクロフト海軍長官宛ての報告書(典拠:最下段)にいわく、

(日本側の回答を受けるため)1時間後に制服姿の私は艦のボートで日本の船の舷側に行き、乗船しようとした途端、甲板に居た一人の日本人が私に向って一撃したか一突きしたので、私は艦のボートに推し戻されてしまった。私は直ちに通詞を呼びつけ、この男を捕らえる様に言い艦に戻った。その私の後から、通詞と役人の一団が乗船して来た。彼等全員その出来事に対し大いに心配した表情を浮かべ、攻撃したのは船上の普通の兵士だったと言い、厳罰に処すべく約束した。彼等は私がどんな処罰を望むかを尋ねてきたので、「日本の法により処罰すべし」と答えた。私は、日本の役人達が甲板に出て私を迎えるべきなのに、そうしなかった役人達にこそ責任があると言った。彼等は私が舷側に来るとは思っていなかったと言ったが、私は、通訳のまずさから私の要求は、日本側が、彼らの方から艦上に来る事とだ思い込んだ事が原因だったと確信した。私は彼等に、私に対する暴力は深刻な侮辱行為だが、彼等が如何に私の忍耐のお陰を被っているか、注意深く印象付けようとした。彼等は非常に心配し、恐れ、出来る限り私をなだめ様とした。その日の内に江戸の奉行から使いの役人が来て、暴力を働いた者を厳罰に処すと伝え、私に、どうか深刻な事態と思わないよう頼んできた。特に、大勢の日本人か乗っている面前で、しかもこの船は、総て我々との間の対応は非常に良好だったから、この男の行為は不可解である。
私が期待し欲した総ての罪の償いは直ちに行われ、この暴力行為が日本の役人の感知しない所で起こったと確信するので、この出来事を報告する必要性を感じない。だがしかし、将来、誤った内容が公的出版物(筆者注:新聞、雑誌など)に出される可能性に対する防御のため報告するものである。

この様にビドル提督は、指令書に明記された通り事を荒立てないよう配慮し、そして将来可能性のある提督自身への非難にも備え、この報告のごとくその経過と判断とを文章にして残したのだ。非常に思慮深い行為である。しかしここで、上述した海軍長官からビドル提督に宛てた指令書に、「辛抱強く、敵愾心や合衆国政府への不信感を煽ること無く」との指示がなければ、あるいは小競り合いになり、大砲の弾が飛び出す不幸な結果を招く可能性もあったと思われる。若しビドル提督が、アメリカと自身とに対し侮辱を受けたと判断すれば、その報復に、浦賀港入り口にある小型大砲を数丁むき出しに装備した2、3の台場を砲撃し、完全に破壊することはいとも簡単なことである。そんな直面した危機を肌で感じたからこそ、浦賀の通詞や役人がすぐさま旗艦・コロンバス号にやって来て謝罪し、江戸から来た役人も事後処置を約束したのだ。

このビドル艦隊には、当時の浦賀奉行・大久保因幡守の報告書によれば、旗艦・コロンバス号には「左右三段に大筒八十三挺仕掛け、小筒八百挺短筒八百挺、八百人乗り組み」、ビンセンス号には「左右一段に大筒二十四挺仕掛け、二百人乗り組み」と、合計百七門の大砲が積まれていた。また同じ報告に「船中、大小の太鼓、笛等をもって士官が指揮し、兵卒の調練をしていた」から、いったん戦闘状態になれば、日本の敵うところではなかった。特にこの旗艦は、「コロンバス号・74門砲艦」とも呼ばれた当時の典型的な戦列砲艦で、砲艦が砲撃対象に横一列に向かって並び、一斉射撃をするための大型戦略砲艦である。後にペリー艦隊にも同型の「ヴァーモント号・74門砲艦」が加えられたが、乗組員が揃わず日本には来なかった戦艦と同型である。このビドル提督の浦賀に来た1846(弘化3)年から4年後の1850(嘉永2)年、当時の浦賀奉行・戸田伊豆守の報告書に、「相州の城ヶ島から横須賀の猿島まで七里程の重要な海岸防御地域に、最近増設したといっても七十挺程の大砲しかない。それも全て小型ばかりで貫目以上は何もない」と言った通り、貧弱な日本の海岸警備に比べコロンバス号の砲撃火力は比べようもなく巨大で、通詞・堀達之助はじめ浦賀や江戸の役人達の恐れが良くわかるものだ。

後にこの出来事とビドル提督の態度とを日米両国でとやかく批評する人たちも居るが、むしろビドル提督の、海軍長官から受けた命令に対する忠誠心と我慢強さを賞賛すべきであろう。この後浦賀を出帆したビドル提督はヴィンセンス号と別れ、74門砲艦・コロンバス号を指揮してハワイ経由北米西海岸のモントレーに着き、ここを中心に、始まっていた米墨戦争をサポートする太平洋艦隊の指揮を執った。

筆者は最近、2018年暮れに、改めてジョセフ・ヒコの自伝「The Narrative of a Japanese, by Joseph Heco. edited by James Murdoch, M.A., Vol I and II」を精読する機会があった。その中にこのビドル提督の出来事についての記述がある。今まで失念していた事柄ではあるが、ここに追加する。ビドル提督の事件から5年後の事である。

難破し漂流する栄力丸の17人がアメリカ商船・オークランド号に救助され、サンフランシスコに上陸した。その後アメリカ政府の方針で、ジョセフ・ヒコを含む全員がアメリカ軍艦・セント・メリーズ号で香港に送られ、オーリック提督の到着を待つ事になった。その軍艦・セント・メリーズ号で航海中の事である。乗っていた軍艦の上級大尉がヒコ達に言うには、自分の叔父はビドル提督である。浦賀でビドル提督が自身のボートから日本側の軍船に乗り移ろうと足をかけた時、大小を帯刀した船上の侍が提督をボートに突き戻した。提督はボート内に転倒し、手足を打撲した。この無礼な行動に激怒した提督は、旗艦に戻るとこの日本の軍船を砲撃せよと命じた。その時、部下である旗艦コロンバス号の艦長は、「通告なく日本軍船に乗り移ろうとした提督の方に落ち度があります」と言いながら提督をなだめ、落ち着かせたという。

とにかく、このビドル提督の忍耐が無ければ、この事故の原因を作った川越藩の警備船は砲撃され死者が出たことに疑いはない。更に、上にも書いたごとく、浦賀の砲台にまで攻撃が及べば、後に川越藩の責任問題にまで発展した可能も否定できない。

♦ 幕閣の対応方針の徹底

こんなハプニングに対し、幕閣・阿部伊勢守が対応方針を確認し徹底しようとしたと思われる日本側の記録がある。それは、この時から8ヵ月後の弘化4(1847)年3月23日付けの、浦賀奉行と警備四藩宛てに出された 「老中達し」である。いわく、

去る寅年(筆者注:「薪水給与令」を発した天保13(1842)年) の異船打ち払い御差止めに付いては、防御筋の儀は一段と手厚に相心得るべき旨仰せ出されていたが、近年は諸州の異船が度々近海に渡来し、その情意や淵底の程は何とも量り難いので、この度お固め人を増し併せてお台場築造等を仰せ付けられたのは不慮のお備えの為である。惣じて外異とは言語や文字等相通じない場合、双方の行き違いが毎々あるので、若しこの方より軽率に手荒の儀があっては以ての外である。先方の不法に相決り、止むを得ずの時節は幾重にも厳重に取計らい、聊かたりとも御国威を汚さない様に致すべくは勿論であるが、先ずはなるべく穏便に取計らう様に。これにより異船が誤って要地を乗り越えた時の乗り止め方は、今般改めて申進めている趣旨もあるので、以上の趣意を熟慮し、異船との応接はこの方よりは随分礼儀を尽くし、御国法の次第を明白に申し諭し、早々帰帆する様に取計る事が肝要である。この旨は組の者へも兼ねて申し付けてある事だが、兵具等を取り餝(かざ)り進退するような事のある時は却って人気も動揺するので、穏便にではあるが、覚悟を持つ事は勿論の事である。其の他、銘々が常々の心掛けを一切誠実に行き届かせ、機に臨み粗忽の儀が無い様、心掛ける様に。

この様に、穏便にではあるが覚悟を持って、兵具等をちらつかせる事無く、こちらから粗忽な行動をしないようにと戒めるものだった。この 「穏便に」と云う幕府の基本方針は、これから6年後にペリー提督の艦隊が来るまで続く事になる。

(バンクロフト海軍長官からビドル提督宛て指令書、及び、ビドル提督からバンクロフト海軍長官宛て報告書:32d Congress, 1st Session, SENATE., Ex. Doc. No. 59)

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12/02/2018, (Orginal since October 2010)