日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

サンフランシスコ駐在の初代日本領事

♦ 出会い

筆者の知る限り、後に幕府により、初代サンフランシスコ駐在日本国領事に任命されるチヤールス・ウォルコット・ブルックス(Charles Wolcott Brooks)の名前が日米の歴史書に初めて出てくるのは、明治になって勝海舟が編纂した「海軍歴史」の中の、「咸臨艦米国渡航の下、第十九条 桑港発船」の項で、そこに引用された海舟自身の日記の中で、万延元(1860)年のことである。いわく、

閏三月十八日午前六時五十四分、蒸気罐点火、八時十分、水先案内者一人並びに役人ブルックスと云う者、外一人及びセルヂアント等見送りの為乗船。
このブルックスは、この地に居住し、貿易の事を取扱う者にて、我が船停泊中プレジデントよりこの者に命じて、食料、その余一切の買上げ品を用弁せしむ。又上陸の者あれば、この者波止場に出迎え、夫々案内致し、市中群集の地は属役をして制せしむ。よりて諸事不都合なきことを得たり。

また、咸臨丸に乗る軍艦奉行・木村喜毅(よしたけ)の書いた日記「奉使米利堅紀行」の中の閏三月十九日にも、

ブルークスは予を送り船に乗組み来たりし。第十二時の頃港外に出しが懇ろに別れを告げて、己が携え来たりし軽船に乗って帰りたり。この人はまだ年少なれども温良にして才敏く、着船の初めより全ての事を周旋し、船中の用弁を何事によらずこの人に託せしに懇切に取扱い、終日奔走し更に寝食の暇もなき程なりき。予戯れに子は日本の岡士(コンシュル)なりといいて大いに笑いたり。

と出てくる。ブルークス即ちここで云うブルックスに「君は日本の領事だ」と冗談を言って笑ったのだ。後の文倉平次郎の著書「幕末軍艦咸臨丸」の第一編、第七章、第一節のサンフランシスコの「アルタ・カリフォルニア紙」の記事にも、「昨夕日本海軍士官中浜・鈴藤及び浜口・佐々倉等がボートにてブルーク船長及びチヤーレス・ブルークスを伴い上陸した」と報ずる内容を紹介している。以上から、咸臨丸一行はブルックスの親身になった援助を受けたことが良く分かる。

一緒に乗組んだアメリカ海軍のジョーン・ブルック大尉とその部下に援けられ無事サンフランシスコに着いた咸臨丸に、サンフランシスコでの大歓迎と親切な手が差し伸べられ、若く親切で敏腕商人のチヤールス・ブルックスが、市長の斡旋で咸臨丸の購買係り兼総務係り役を引き受けてくれたわけだ。

また前述の勝海舟が編纂した「海軍歴史」によれば、咸臨丸で渡米した水夫の中には不幸にも病気になり、付き添いをつけ現地の病院に入院させてきた人達がいた。文倉平次郎によれば、その後死亡した2人の水夫はブルックスが墓碑まで作って墓に葬り、全快した人達は、ブルックスが船を手配し日本に送り返したという。

♦ 鉱山技師の招聘

文久1(1861)年3月14日、外国奉行兼箱館奉行・村垣範正から鉱山技師をアメリカから招聘したい旨の依頼がアメリカ公使・ハリスに出された。これは蝦夷地北海道にある鉱山を開発すべく、アメリカの先端技術者を2人招き、鉱山開発の技術指導を願いたいというものだ。これに対し同年5月29日ハリスから、サンフランシスコのC・ウォルコット・ブルックス宛の書簡の写しと共に了解の返事が来たが、書簡の写しは、サンフランシスコのブルックスに人選と費用の連絡を依頼したものだ。いわく、

日本政府は、鉱山学を修め実地経験のある鉱山家2人を招聘し、金銀銅鉛鉱を掘り鉱山操業を学びたいと願っている。従って貴下の周旋で、健康で沈着な最適任者2人を雇いたい。日本政府には、1年契約で1人年額3千から5千ドル位だろうと言ってある。着任先は箱館であるが、雇ったらその雇用契約書を認め持参させて欲しい。

というものだった。

このハリスからの依頼によりブルックスは、蝦夷地鉱山採掘のため、鉱物・地質学者・ウィリアム・P・ブレイク(William P. Blake )と地質学者・鉱山技師・ラファエル・パンペリー(Raphael Pumpelly)の2人の学者を選び、鉱山開発に必要な分析用化学薬品や必需品も取り揃え日本に送った。このブレイクとパンペリーとの1861(文久1)年10月22日付けの雇用契約書に、ブルックスは日本政府委任の全権すなわち領事の肩書きで署名し、その旨を契約書中に書いている。いわく、

日本駐在公使、タウンゼント・ハリスの仲介により、日本政府の命を以て日本政府の名代となり、その取扱いをなすチヤールス・ウォルコット・ブルックスは、この度ブレイクとパンペリーを日本政府のため山産学地理学及び鉱山学家の職務に任ずる。

と書いた。このように日本政府の代表として2人と雇用契約を結んだのだ。翌文久2年4月箱館に着いた2人は、箱館に鉱師学校を創り日本人に講義をし、3回に渡り北海道の地質調査を実施した。このブレイクとパンペリー筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) は、いわゆる初期の「お雇い外国人」で、初めてのアメリカ人だった。

♦ ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の証言

ジョーン・ブルック大尉の項でも書いた如く、ジョセフ・ヒコはかって太平洋を難破漂流し、アメリカ船に救助され、アメリカで教育を受け帰化した。縁あってジョーン・ブルック大尉と出会い、ハワイまで海洋調査に付き合い、上海でハリス公使に会い、横浜のアメリカ領事館通訳に採用され日本に帰国できた。これはしかし、アメリカ政府が議会の正式承認を得たポジションでないから、正式なアメリカ外交官ではなく、従って待遇もよくはなかった。横浜が開港され2年も経つと、攘夷運動が益々盛んになり、横浜や神奈川近辺で攘夷殺人が横行した。アメリカ領事館勤務のヒコも付け狙われ、奉行所から身辺に注意し横浜居住地から出ないよう何度も警告を受けるようになった。このためヒコは、横浜駐在のアメリカ海軍兵站部勤務士官に任じてもらえるよう運動のため、1861年10月16日いったんサンフランシスコに帰った。制帽に金筋の入ったアメリカ海軍士官になれば、待遇もよくなり、より安全な場所で勤務が出来るからだ。残念ながら海軍に採用はされなかったが、スーワード国務長官から日本領事館通訳に正式採用され、議会で承認された正式外交官になり、リンカーン大統領にも会って握手もした。

そんな後でサンフランシスコに向かったが、翌年5月サンフランシスコの新聞に、漂流中の日本人がまたヴィクター号に救助され港に到着したというニュースが出た。漂流者の苦難を熟知しているヒコは急いでブルックスを訪ね、一緒に漂流者を救助した船に行き援助の手を差し伸べた。ここでヒコは、その自伝の中で、「日本領事のブルックス氏」と同行したと書いている。すでにブルックスは、前述のブレイクとパンペリー以来、「日本領事」の肩書きを使い活動していたようだ。難破したのは尾張の船で、12人が救助されていたが、ブルックスとヒコは早速日本行きのアイダ号を見つけ、12人の漂流者を日本に送還した。

これから約10ヵ月後、むかし咸臨丸で航海士として渡米し、当時勘定吟味役になっていた小野友五郎が軍艦武器購入の命を受けサンフランシスコに上陸した。この時もブルックスは色々便宜を図っているが、自発的にではあるがブルックスは、日本のため出来る限り日本領事の役をこなしていたわけだ。

♦ 御印章発行とバン・バルケンバーグ公使の推奨

アメリカのバン・バルケンバーグ公使は慶応3(1867)年8月19日、幕府に書簡を送り、サンフランシスコに日本政府の公式な領事を置くことを提案した。この背景は、前年4月幕府の布告した「海外渡航の差許し」にある。これは幕府が商人や留学生の海外渡航を正式に認め、現代のパスポートに当たる「海外行御印章」を発行し始めたことだ。以降、身分に関係なく、誰でも申請し許可が出れば、この印章を持ち海外渡航が出来るようになったわけだ。

これは慶応1年10月、4カ国が兵庫に艦隊を送り、幕府と朝廷に下関賠償金の三分二を放棄する代償として通商条約の勅許、兵庫と大坂の先期開港開市、税率軽減の3か条の要求を示し、期日内の返答を強く迫り、孝明天皇が條約勅許を与えた時に遡る。その時幕府は、朝廷の條約勅許と共に税率軽減交渉を約束し、江戸でイギリス、アメリカ、フランス、オランダと交渉を始めた。幕府は慶応2年5月13日、新しく合意した「改税約書12カ条と運上目録」に調印したが、その第10条に「その筋より政府の印章を得れば、修理行または商売するため各外国に赴くこと、並びに日本と親睦なる各外国の船中に於いて諸般の職事を務むる事故障なし」とうたわれている条項によるものだ。これを実行するため、「海外行御印章」発行になった。

公使いわく「サンフランシスコと横浜間に素早い定期郵船航路も確立し、日本政府も印章の法を造り日本人が自由に海外へ旅行することを許して以来、サンフランシスコに居て日本商人を保護する役人を置くべき時になった。日本政府に九ヵ年もの間無給で貢献する貿易エージェントが居る事はご承知の通りだ。サンフランシスコとの間の貿易と旅行が頻繁になることを思い、サンフランシスコ居住のコンシュルの任命を歓迎し、それは日本政府に取っても有益なことと信ずる」とブルックスの存在を強く示唆し、その領事任命を推奨した。筆者にはこの九ヵ年という数字に疑問もあるが、あるいはサンフランシスコで漂流者の面倒を見始めて以来という意味かも知れないが、いずれにしても公使の書いたように、チヤールス・ブルックスは永年無給で日本政府に便宜を図ってきたわけだ。

公使と細部の根回しを終えた外国奉行たちは幕閣に意見書を上げ、是非ブルックス氏を日本領事に任命すべく建言した。外交担当の老中・小笠原長行はこれらの意見を踏まえ、バン・バルケンバーグ公使へ、慶応3(1867)年9月28日付けでチヤールス・ウォルコック・ブルックスの日本国領事就任の委任状を交付している。これでやっと日本政府公認の、サンフランシスコ駐在日本領事が誕生したのだ。

チヤールス・ブルックス領事は、明治新政府になってからも1870(明治3)年8月25日付けで引き続きサンフランシスコ駐在領事に任ぜられ、その2年後に退任するまで日本領事を務めた。この間には岩倉具視を特命全権大使とする米欧使節団が1871(明治4)年11月12日横浜を出航し、12月6日サンフランシスコに着いたから、ブルックス領事は多忙だった。一行の旅館の手配から歓迎の準備、そしてアメリカ大陸横断鉄道でワシントンDCまで同行したから、自分の商売どころではなくなっただろう。

元のページに戻る


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
07/04/2015, (Original since 12/05/2008)