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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

永住丸に乗った初太郎の漂流と生還、『亜墨新話』

♦ 永住丸と初太郎の漂流記録、『亜墨新話』
典拠:『亜墨新話』(写本表題:「亜墨利加新話」)、全部五巻」、宇和島伊達文庫、書誌ID:100293219。但し、巻一内の識には「亜墨新話 」となっている。)

天保14年12月3日、即ち1844年1月22日、清国の船・永泰号が永住丸の漂流者・初太郎と善助、更に他の2人の漂流者の合計4人の日本人漂流民を乗せ長崎に入港し、翌日の12月4日、また別の5人の漂流民を乗せた源寶号も入港した。合計9人の日本人漂流民が相次いで支那から長崎に送還されたのだ。

送還されたこの9人の日本人漂流者の中の1人初太郎は、兵庫の西宮内町(にしくないまち)中村屋伊兵衛の持船・永住丸、千二百石積、13人乗り組みの廻船に「岡廻り」として乗り組んでいた阿波の国・徳島出身の若者である。岡廻りとは当時の廻船乗組員の役目の一つで、会計事務を担当し、沖船頭・善助の補佐役であった。

兵庫の港は歴史も古く、平安時代の初期から大輪田泊(おおわだのとまり=港)として国家の管理下で大規模に造営され、遣唐使船も避難港として使い、その後日宋貿易で栄えたと言う程の良港だった。初太郎が出航した当時は、廻船の基地として栄えた場所の一つでだったのだろう。ここは現在の神戸港の西側の一部であり、今も「古代大輪田泊の石椋(いわくら)」の一部として出土した大石が展示されていると聞く。船着き場か波止場に使われた大石の様だ。

さて送還された漂流者たちの長崎奉行所の調べが終わると、迎えに来た徳島藩士・斎藤寛作に伴われ弘化1(1844)年8月21日故郷・徳島に帰った初太郎は、翌日藩の尋問を受けた。その報告を受けた前藩主・蜂須賀斉昌の命で、長崎奉行所での口述書と初太郎を迎えに行った藩士・斎藤寛作の記録をもとに、儒者・前川文蔵と藩士・酒井貞輝が初太郎の見聞をまとめ、絵師・守住定輝が絵や地図を付けた。これに儒者・那波希顔が識を付け天保15(1844)年即ち弘化1年10月、『亜墨新話』一名『亜墨利加新話』5巻が完成し藩に提出された。

♦ 『亜墨新話』一名『亜墨利加新話』のあらすじ

初太郎の乗り組んだ永住丸は天保12年8月23日即ち1841年10月7日、塩、砂糖、線香、菽豆(=大豆)、粮米15俵を積んで奥州の南部に向け兵庫を出帆した。江戸湾の浦賀に寄港した後犬吠埼の沖で嵐に遭って遭難し、帆柱を切り倒し転覆は免れたが舵も壊れ、東南東方向に吹き流され、10月中旬から四ヵ月余りも太平洋を漂流した。漂流の初めこそ粮米があったが底をつき、疑似餌でブリやシイラ、カツオを釣り、舟板に着いたカメノテを採り、砂糖をなめて命をつないだ。

そんな中で2月中旬に西の方角に一艘の船を認めたが、近づくに従い帆数の多さから黒船即ちガレオン船と分かった。黒船は2艘の端船を降ろし様子を確認するため壊れた永住丸の廻りを回ったが、夫々大型の鉄砲を持った5,6人が乗っていた。やがて永住丸に乗り移って来て、手まねで本船を指さし食事を与えると教え、船中に残っていた酒40樽、砂糖17樽、鍋やかまどまで端船に積み込み、13人を救助した。本船では何ヵ月ぶりかの握り飯と菜の塩漬を与えられた。

後で聞くと救助した船は28人乗り組みのスペイン船で、船長と副船長はスペイン人、その他の船員はマニラ出身者であった。この様に太平洋を渡るスペインのガレオン船は、16世紀半ばから19世紀初頭まで存在し、フィリピンのマニラと当時の新スペインのアカプルコ間を4、5ヵ月もかけて太平洋を横断した貿易船である。こんな長期航海をする28人乗り組みのガレオン船に突然13人が救助されたわけだから、たちまち飲料水と食料が不足し、3回の食事が2回になり、救助した13人には水を一滴もくれなくなった。「咽かわき身苦しみ、疲れ弱ること漂流せし間よりも甚だし」と述べている。

そんな苦しみの中で2ヵ月も経った4月中旬、左舷に陸地が見えて、沖合に錨を入れた。その夜突然、初太郎、永住丸船頭・善助、その他5人が端船に乗り上陸するように言われ、見知らぬ海岸に強制的に上陸させられ、端船は引き返し本船も錨を揚げ出航してしまった。夜中にやっと人家を見つけ保護されたが、そこはバハ・カリフォルニア半島の最先端にあるカボ・サン・ルーカスであった。

初太郎など13人が海上で救助された当時、昔のスペイン王国の属領・新スペインは独立し、メキシコ帝国、メキシコ合衆国を経てメキシコ共和国になっていた。従ってスペイン国王の許可のもとに太平洋を渡るガレオン船貿易はメキシコの独立と共に消滅したが、時として民間商人による貿易船が運行されていた様だ。初太郎や善助たちをカボ・サン・ルーカスに置き去りにしたスペイン船は、そこから30qほど北東にあるサン・ホゼで水を汲み、ここでまた七太郎と萬蔵を置き去りにして出帆してしまった。恐らく、残りの日本人4人を乗せたままそこから更に南東に1300qの対岸本土にあるアカプルコに向かったのであろう。

一方、初太郎と善助など7人はカボ・サン・ルーカスで保護された3日後に船でサン・ホゼまで送られ、その地のメキシコ共和国の地方役人の居る家に出頭した。驚く事にそこにはガレオン船で分れた七太郎と萬蔵が居て、9人が再会を果たした。その内に町人に見える20人程の人たちが役人の居る家に来て、思い思いに救助された日本人漂流者を1人ずつ自宅に連れ帰った。最後に残った初太郎は50才ばかりの品の良い人物に連れられその自宅に行き、落ち着く事が出来た。その人の名はミゲリ・チョウサといい、その家は白壁造りの茅葺で、男女10人が暮らし、下女2人と下男が1人いた。朝食は砂糖入りの茶とパンを食べた。ここサン・ホゼは北緯25度(筆者注:正確には北緯23度)にあるため暑く、昼間はだしで歩けないため牛皮を3枚重ねて靴底にした靴を履いた。しかし朝10時頃から涼しい南風が吹き、強い日差しではあるが過ごし易かった。

その30日程の後、善助はその家主に連れられ、サン・ホゼから北西へ140qほど離れたラッパス(筆者注:ラ・パス)に移動した。この人は役人で、ラッパスからサン・ホゼに来ていた人だった。一方の初太郎の家主のミゲリ・チョウサは初太郎を気に入り、自分の娘と結婚させようと思い、家族同様に至れり尽くせりの良い待遇を与えてくれ、読み書きも教えてくれた。

そんな中で初太郎は4月中旬から11月初めまで半年以上もサン・ホゼで過ごしたが、知り合いになっていたラッパスの船主・ペロンから、対岸本土のマザトランには時々オランダ船が入港すると言う情報を聞いた。そこでラッパスからやって来た善助とサン・ホゼに居る初太郎はじめ8人、合計9人全員が集まり話をしたが、言葉の話せる善助と初太郎が先ずマザトランに行き様子を探る合意が出来た。

そこで船主・ペロンに頼み、善助と初太郎は5日かけて東330qにあるマザトランに渡り、ペロンの助けで土地の長官・ホロネルの家に出頭した。オランダ船は来ていなかったが、長官・ホロネルから4、5日中に唐土に行くアメリカ合衆国の船があると言う情報が来た。5日間ではとてもサン・ホゼから7人の仲間を呼寄せる余裕は無かったから、善助と初太郎は「此便船におくれば、9人ともにむなしく此国に朽ち果てんこともはかりがたし」と、先ず2人だけで支那に向かう苦渋の決断をした。船主・ペロンの計らいでマザトランの大家を回り、寄付を乞い、銀貨360枚が集まった。この中からアメリカ船へ1人100枚の船賃を払い、衣服少々を買い整え、残りの140枚を善助と初太郎に与えた。 マザトランからアメリカ船に乗った初太郎と善助は、およそ70日かけて1月中旬マカオに着いた。ここで初太郎1人が降ろされ、善助とは別れ別れになった。港では支那人が大勢集まったが、言葉の分からない初太郎は砂の上に「我日本人」と書くと意思が通じ、マカオでアメリカ人が所有する大きな家に案内された。恐らくアメリカのプロテスタント教会のアメリカン・ボードから派遣され印刷物発行所を運営していたS・W・ウィリアムズの家の様である。ウィリアムズに会ったのだろうが、「家主はアメリカの人のよしなれど、阿蘭陀人の風なり」と書いている。

マカオに90日ばかり滞在し、その他2人の能登の漂流者と共に浙江省の乍浦(筆者注:さほ、上海の南西90q)に着いた。ここで日本人漂流者は合計9人となり、ここで日本行きの船を待って130日ほど滞在した。そして終に支那の交易船・源寶号に5人が乗り11月16日に、永泰号に初太郎、善助始め4人が乗り11月23日に長崎に向け乍浦を出港した。永泰号は無事に天保14年12月3日即ち1844年1月22日、長崎に入港でき、翌日の12月4日源寶号も入港した。

♦ 『亜墨新話』一名『亜墨利加新話』の関連情報

藩士儒者・前川文蔵の識中に『亜墨新話』の内容の正確さについて、記述中においては、その地形や里程などは初太郎自身が記述された内容を直接確認したとしているが、話を最終的な形に記述した前川文蔵はその識に、「元来学識もない舟子が突然漂流し気が動転している慌ただしい時に、わずかに見聞し記憶していた事のみであるから、どうして誤謬が無いと言えるだろうか」と述べ、当時の地理図説を参考に大きな誤りは修正した。しかし意味が通じる範囲に止め、大きな改作はしなかったと記している。また当時、阿波国・徳島出身で徳島藩のお抱え御用絵師になっていた守住定輝(筆者注:のち守住貫魚) が地図や挿絵を担当したが、「初太郎を招き、数十日もかけて景色や器物の形状や人物を描き彩色したが、数十回も描き直したものもある。船の帆檣の造りなどは、木を削り紙を剪り、小型の模型を造った後に細繩を張って確認した後に描いた。一図にも敢えて杜撰(ずさん=典拠の確かでないことを書くこと)を加えていない。これは些細な事とは言え、君名を受け且つ信を後世に取らんとするためである」と、名誉をかけ、最善の努力で正確を期したと、見た事もないものを描く苦労を記している。

最初に永住丸に乗組み漂流した13人は幸運にも、太平洋を漂流中にスペイン船に全員が救助された。しかしその後メキシコで夫々行動が異なり、結局日本に帰り着いたのはこの阿波の初太郎の他、紀州周参見の沖船頭・善助、伊予の伊之助、九州の多吉、紀州の弥一郎の5人であった。これら幸運な人達は帰郷後、初太郎以外にも夫々に「口書」いわゆる調書を残し、それに基ずき善助の『東航紀聞 』、伊之助の『海外異話 』、多吉の『墨是可(メキシコ)新話 』、弥一郎の『紀州口熊野漂流噺 』があると聞く。特に善助の『東航紀聞 』は嘉永4年11月に紀州藩士・岩崎俊章が識を入れ、初太郎の『亜墨新話』と同様に地図挿絵入りで、同様に詳細に記述されている。

更にこの『亜墨新話』はその完成後9年も経った頃、『海外異聞、一名亜墨利加新話、全部五巻』として嘉永7(1854)年冬、即ち安政1年冬、靄湖漁叟の撰により新しく版木を起こし青蚨園壽櫻が出版している。その頃は幕府がペリー提督と日米和親条約を締結してから半年程も経った頃であるが、恐らく巷には、アメリカや海外情報を知りたいと思う購読者が増えていたのであろう。『亜墨新話』を基にした『海外異聞、一名亜墨利加新話、全部五巻』は版木を起こした一種の大量印刷というその出版の性質上、出版部数も写本とは比較にならない多さであったろう事は容易に想像できる。これは現代になっても歴史家の興味を引き、『TUMWINKLE - KAIGAI IBUN, 海外異聞, Translated by Richard Zumwinkle, assisted by Tadanobu Kawai, 1970, Dawson's Book Shop, Los Angeles, California』として英語に翻訳されたものも出版されている。

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02/23/2020, (Original since 02/23/2020)