日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

レディー・ワシントン号(レディ・ワシントン号とも)、ボストン船の広東貿易

♦ ボストン商人のチャレンジ

アメリカ合衆国が独立し十数年もたつころ、イギリス海軍のキャプテン・クックの南太平洋やニュージーランド、オーストラリア、南極海探検など2回に渡る航海記も出版され、第3回探検で命を落としたサンドイッチ諸島、すなわちハワイ諸島の発見もよく知られるようになった。またキャプテン・クックがハワイで命を落とす前年の1778年、北アメリカのカリフォルニア北部からカナダ西海岸一帯を探検し、現在のバンクーバー島 (名前の由来) に上陸し、ブリティッシ・コロンビア沿岸からアラスカを経てベーリンク海峡まで測量した。この時に、中にはバンクーバー島近辺でラッコの毛皮を手に入れた隊員もいて、広東に寄港した時には、それが800倍以上もの信じられないほどの高値に売れた。この事実は、偶然にもキャプテン・クックの船に雇われていたアメリカ人船員により故郷・コネティカットにもたらされ、支那貿易の儲け話として伝わっていた。

そもそもアメリカの支那との広東貿易は、1784年から始まっている。当時の広東貿易は、今日の歴史家が「広東システム」と呼ぶものであるが、支那の規則で如何なる外国船も広東の下流のワンポアまでしか入れず、それ以降、上流の広東へは支那の公認交易商・公行(こうこう、Co hong)が取り仕切っていた。広東貿易でワンポアに入る外国交易船は、その前にいったんマカオに立ち寄り登録し役人の許可を得る手続きが必要で、全てが自由にできる貿易ではなかった。

更なる広東貿易を考えるボストンの一部の商人たちは、この制約の多い広東貿易を如何に成功させるか熱心に議論した。当時の広東では、イギリスの東インド会社との貿易で支那の茶を輸出し、羊毛製品などを輸入し、銀貨での決済が好まれたから、アメリカ製品には興味も示さずアメリカ商船とバーター取引もしなかった。喜望峰経由の東廻りで広東から茶の買い付けをしてもなかなか利益が出なかった当時、もっと利益をあげる方法を模索するボストン商人たちは、広東でビーバーやラッコの毛皮が高値に売れることに目を付けたのだ。

しかし当時の北アメリカ大陸の北西海岸は、キャプテン・クックの探検後もアメリカ人にとってさえまだ未知の世界だったが、1787年のボストン商人たちは、あえてこの北西海岸の毛皮を広東に持ち込むことに挑戦することに決めたのだ。そして5万ドルの出資金を得て212トンのコロンビア号と90トンのレディー・ワシントン号(レディ・ワシントン号とも)を購入し、ネズミ捕りワナ、ネックレスやイヤリングや大量のビーズ、鏡、やかんや鍋、帆布針などの交易品を積み込み、大砲や銃剣、その他の武器も積んで武装を施した。当時のこんな貿易航海は未知の場所に行くことも多く、時として現地インディアンとの武力衝突もあり、スペインやポルトガルは言うに及ばず、オランダやイギリスの貿易会社も武力や法律で競争相手を排除する時もあったから、商船といえども武装が不可欠だった。

そして当時47歳だったケンドリック船長にコロンビア号と船隊の指揮を、32歳のグレイ船長にレディー・ワシントン号を託したのだ。そして出資者はケンドリック船長に、「この投資資産を預けるので、現地のインディアンとは公正な取引で調和と友好を心がけ、アメリカ西海岸のスペイン領には出来るだけ近付かず、カトリック教国の人間とは争いを起こさないように」という命令書を与えた。更に、当時「シー・レター」と呼んだアメリカ議会とマサチューセッツ州発行の一種のパスポートも与え、「自由と独立精神を堅持したアメリカ人としての立派な行動で、このシー・レターなしでも、安全な航海とその成功を祈る」と深い信頼を表明した。

♦ ケンドリック船長とグレイ船長の行動

1787年10月1日ボストンを出航した2隻の船は、大西洋を南下し、南米大陸の南端ケープ・ホーンを回り、西回りで南北アメリカ大陸に沿って北上し、レディー・ワシントン号はコロンビア号より数ヶ月早く、翌1788年の8月半ばにバンクーバー島に着いた。2艘の船はこの辺りの沿岸に一冬滞在し、インディアンと交易し毛皮を集めた。

こんな現地インディアンとの交易は、彼らの必要とする鉄製のモリの刃先、鉄製のノミ、鍋釜や装身具などとラッコやアザラシの毛皮との交換だった。レディー・ワシントン号でケンドリック船長が日本に立ち寄る2年程前の1789年5月頃、中でも大型の鉄製ノミは現地インディアンにとって容易に入手できない貴重品だったらしく、バンクーバー島の北西にあるクイーン・シャーロット島の 「ある場所で、素朴な現地インディアンは古い鉄ノミ1本を手に入れるために、8千ドルにもなろうかというラッコの毛皮200枚をくれた」と云う(「History of the Pacific states of North America Vol. XXVII, History of the Northwest Coast Vol. I」、by H. H. Bancroft, 1884)。この様に、時には全く幸運な商売も出来たようだ。

その後1789年6月、バンクーバー島の太平洋岸にあるヌートカ湾で領有権を争うスペイン艦隊が毛皮交易のイギリス船・ノースウエスト・アメリカ号を拿捕し、捕虜にした乗組員をこのケンドリック船長とグレイ船長の乗るアメリカ商船に預け支那まで送り届けさせる事になった。そこで若く機敏で操船も巧みなグレイ船長が大型のコロンビア号を預かり、ケンドリック船長がレディー・ワシントン号を預かる事にしたのだ。当時このヌートカ湾のスペインとイギリスの領有権争いは、イギリスがスペインに最後通牒を突きつけ戦争の一歩手前まで行ったが、最終的にスペインの妥協で平和解決される。ラッコの毛皮を満載したコロンビア号を預かるグレイ船長は、スペインの捕虜になったイギリス人も乗せてハワイに帰港し食料を調達し、広東に行き毛皮を売りさばいた。その後コロンビア号は喜望峰を回る西回りでボストンに大量の茶を持ち帰ったが、これは記録に残る初めてのアメリカ商船の世界一周航海だった。またこの時、グレイ船長はハワイから酋長の息子の1人、アット(Atto)という若者を連れボストンに着いたが、当時のボストンではこれらのニュースで持ちきりだったと云う。

ケンドリック船長と別れコロンビア号で帰国したグレイ船長は、ボストンから再度北米大陸の西海岸へ来たが、その航海の1792年5月18日、現在の米国・オレゴン州とワシントン州境にある大河を発見し、船の名前からコロンビア河と命名した。歴史的には、この時からオレゴン地方をアメリカに帰属させる証拠の発端となったが、同時にスペインもイギリスもあるいはロシアも、このオレゴン地方をも自国領と主張し始めた頃だった。


今もマカオに残るポルトガル時代からの石畳と
夕方の散歩を楽しむマカオの人達

Image credit: © 筆者撮影

一方、その後レディー・ワシントン号に乗るケンドリック船長は、バンクーバー島辺りで更に集めた毛皮を持ってハワイで補給し、そこから広東に行った。同時にハワイからは、ハワイ産の白檀も交易材料として広東に持ち込んでいるが、ハワイでは乗組員を現地に残し、白檀や真珠を集めてもいた(「A voyage of discovery to the North Pacific Ocean, and round the world under the command of Captain George Vancouver, Vol I」, 1798, London, P.172 )。ケンドリックは広東で商売をした後マカオに来て、それまで1本マストだったレディー・ワシントン号を2本マストのブリグ型に改造しているが、毛皮商売で、かなりの利益になったのだろう。帆数の多いこの型の方が高速で、操船もし易いためだったようだ。当時すでにマカオにはポルトガル人の住む大きな街や城郭が出来ていて、イギリス人などもマカオに来ていて広東貿易のゲートだったから、こんな船舶改造も現地で可能だったのだろう。

マカオでケンドリックは、ニューヨーク登録のグレース号の船主・船長になっていた顔見知りのウィリアム・ダグラスと出会い、2人はまだ少し持っているラッコの毛皮を日本に寄って売りさばこうと計画したのだ。そして、バンクーバー島近辺で土地のインディアンと毛皮と交換する銅板や鉄片を多く積み込み日本に向かった。これらの銅板や鉄片はラッコの毛皮を持ち込むインディアンの要望に合わせ、銅板からやかんや鍋を造り、鉄片からモリの刃先やノミを造って毛皮交易に使う目的だ。船にはこんな仕事が出来る職工も乗っていたのだ。この2隻の商船は、1791年3月末から4月初めにはマカオを出港し日本に向かっている。このグレース号には、この資料(著書)を残した著者・アマサ・デラノの弟のサミュエル・デラノ・ジュニアも乗り組んでいた。(「A Narrative of Voyages and Travels, in the Northern and Southern Hemisphere: & etc.」, Amasa Delano, Boston, 1818

紀伊大島の樫野浦に着いたケンドリックは、この様に現在のカナダ・バンクーバー島近辺と支那を結ぶ交易航海で東へ行く途中の日本立ち寄りだった。1791年5月6日(寛政3年4月4日)紀伊大島の南側の樫野浦に着くと、大風にあい、島の入り江に避難したといい、水や薪を補給した。しかし大島では鎖国の掟に従い、誰もラッコの毛皮を買わないから交易にはならなかったが、ケンドリックとダグラスは十日ほど潮待ちの滞在をし、バンクーバー島に向け出航した。グレース号のダグラス船長とは途中で分れたようだ。

ケンドリック船長は上述のごとく、日本に来る前にマカオで、それまで1本マストだったレディー・ワシントン号を2本マストのブリグ型に改造している。その船足の速さが功を奏したのか、スペインの記録によれば1791年6月の初めにはもうバンクーバー島近くに到着したと云う(「Morning of Fire」, Scott Ridley, New York, 2010 )。紀伊大島を出て、1か月足らずで北太平洋を横断したのだ。ケンドリック船長はバンクーバー島で土地の一部のインディアンと諍いもあったが、友好部族とはマスケット銃と火薬との交換で、バンクーバー島・ヌートカ水道(Nootka Sound )の辺りに広大な土地を購入した契約書がアメリカの国務省記録に残っている(「The Historical Magazine and Notes and Queries, Antiquities, History and Biography」, Vol. VIII, 2nd Series, New York, Henry B. Dowson, 1870, P.168 )。このバンクーバー島は、上述のグレイ船長とコロンビア号の所で少し触れたように、スペインとイギリスの領有権争いで戦争の一歩手前まで行った場所で、現在はカナダ領である。その後このケンドリック船長の土地所有権がどうなったか不明だが、当時、1728年のヴィトゥス・ベーリングによるベーリング海峡発見以降、現米国アラスカ州からカナダ、米国オレゴン州にかけての西海岸は、ロシア、スペイン、イギリス、アメリカが入り乱れて領有権を主張しあった歴史的な場所である。

♦ ケンドリック船長のその後

ケンドリック船長については、その後ハワイで不幸なニュースがある。当時ハワイ諸島はまだカメハメハ王により一王国に統一される以前で、時として島々の部族間で戦争があった。ケンドリックと船員たちは1794年12月、オアフ島酋長とカウアイ島酋長との戦争でオアフ島に味方し、オアフ島軍が勝利した。この戦勝を祝い、ホノルル港に停泊するレディー・ワシントン号に乗るケンドリック船長が祝砲を撃つと、同じくオアフ島軍に味方したイギリス商船も祝砲を撃った。不幸にものこのイギリス商船・ジャッカル号(ブラウン船長)は祝砲で実弾を発射してしまい、レディー・ワシントン号に乗るケンドリック船長を直撃してしまったのだ(「Proceedings of The Massachusetts Historical Society, Vol.LIV. October, 1920 - June, 1921」)。

♦ ケンドリック船長の交易地「バンクーバー島」名前の由来、なぜ「クック島」にならなかったのか?

 

ケンドリック船長の交易地「バンクーバー島」名前の由来、なぜ「クック島」にならなかったのか?

キャプテン・クックは1778年3月末から現在バンクーバー島と呼ばれるこの島のヌートカ水道(Nootka Sound)に1か月近くも停船し、土地の住民と接触した記録が残るのに、なぜ「クック島」と名付けられず「バンクーバー島」になったのか、興味のあるところだ。

現在のバンクーバー島を島として認識し、その旨航海記録に記載すれば、おそらくキャプテン・クック自身が直接英国王室などに関係する名前を付けたか、または後日「クック島」などと名が付いたであろう。残念ながらそうならなかったのは、キャプテン・クックの航海記録によれば、現在の米国・ワシントン州の最北端・フラッタリー岬辺りを確認し「フラッタリー岬(Cape Flattery)」と命名したが、そのすぐ北側から南東に入り込む現在のファン・デ・フカ海峡を確認出来なかったためである。バンクーバー島は、その南端がこの海峡に接しているわけだ。

クックの航海記録に、フラッタリー岬を命名した状況を次のように記している(「The Three Voyages of Captain James Cook Round the World, Vol. VI」, London, 1821, P. 242)。いわく、

この島か岩山と一番北側に見える陸地との間に切れ込みがあるように見え、港に出来るような場所を発見できる望みに皆ドキドキさせられた。もっと近づくとこの期待がしぼみ、少なくともこの切れ込みは、低地により閉じられた入江であると信じるに足る証拠を視出した。そこで、この切れ込みの北方にある陸の目印をフラッタリー岬と名付けた。それは北緯48度15分、東経235度3分(筆者注:西経124度57分)である。・・・我々の居るこの緯度こそが、地理学者達がファン・デ・フカ海峡があると言う記録を載せている場所である。それに該当するものは何も見なかったし、そんな海峡が存在するという可能性はほぼ無い。
船を止めた時は夜まで南向きに離れて止めたが、その後南西の微風を受け、夜明けと共に陸に向かうつもりで北西に舵を切った。しかしその頃には雨を伴う陸向きの非常に強い突風で、2組のコースセイルと巻き上げたトップセイルだけに帆数を減す事を余儀なくされた。すでに巻き込まれたこんな状況にまかせ、この好条件を捉え、陸地に向うのを止め、そのまま船を進めた。しかし南西の風は短時間しか続かず、夕刻にかけ風向きが西向きに変わった。この様な訳で、ずっと西と北西の強風にさらされていたのだ。

この「港に出来そうな切れ込み」は、おそらく現在のマカー・ベイ辺りのように思われる。キャプテン・クックは陸地に沿って測量し、効率よく出来るだけ北方まで確認することが目的であったが、この様にそれでも一旦は更に海峡のあるあたりを精査しようと船を陸の方へ向けたようだ。しかし突然変化した天候のためこの海峡の精査を止め、結果としてファン・デ・フカ海峡の入り口を見落としたのである。幅20qもある海峡であり、クック自身もあらかじめこの位置情報は良く知っていたわけだが、確認できなかったのだ。

上述のごとく、このバンクーバー島のヌートカ水道の辺りはスペインとイギリスの領有権争いが過熱し、戦争の一歩手前まで行った場所である。1792年にその平和解決の条約が出来、その交渉者のイギリス海軍キャプテン・バンクーバーとスペインのヌートカ入植地司令官・クアドラの名前を記念し「クアドラ・バンクーバー島」と命名された。その後、「クアドラ」が自然に脱落し、バンクーバー島と呼ばれるようになったという。(筆者注:元に戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用

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08/20/2018, (Original since 10/20/2010)