日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

レディー・ピアース号と越後の水主・勇之助の生還

嘉永7(1854)年6月17日、日米和親条約を結んだペリー艦隊の全艦が下田を離れ帰途に着いた15日後、浦賀奉行・松平伊予守から、異国帆船が見えたので走水村の沖合いで乗り止め、与力や通詞を派遣して調べさせたら、カリフォルニアのレディー・ピアース号というアメリカ商船である。船主はバロースという人物で、越後の勇之助とよぶ23才の遭難者を送ってきた、との報告が江戸に入った。この船には60才の船主・バロースと息子をはじめ、合計19人が乗り組んでいたのだ。浦賀奉行は、ペリー提督と結んだ日米和親条約により下田で漂流民を受け取るから、この強風が収まったらすぐ下田に回航すべくバロースに伝えた。

勇之助については、浦賀で聞き取った日本側の詳しい記録があるが、この越後国岩船郡枝久村(板貝村とも)八幡丸善太郎船は13人乗り組みで、嘉永5年9月1日(1852年10月15日)箱館を出航し2日松前に寄港、その後松前沖で遭難した。9ヶ月間漂流し、積荷の塩△(魚偏に曾、=塩鱒・塩鮭の意)と雨水で飢えをしのいだが、仲間の12人は全員死亡し勇之助のみアメリカ商船に救助された。その後11ヶ月間アメリカ船にいて、サンフランシスコに上陸したと云う。

一方、サンフランシスコでこの勇之助に会っているジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の自伝の記述によれば、サンフランシスコでは重太郎と名乗り、越後の千二百石船の積荷監督で、初めて会った時は刀を差した侍風だったという。そんな風貌に驚いたジョセフ・ヒコは、てっきり日本から派遣されたお役人がジョセフ・ヒコ達を連れに来たと思ったと書いている。この時ヒコがこの勇之助からその遭難の顛末を聞き、ヒコの英語が分かる友人・トーマス(Thomas)が英語に綴り、その内容がサンフランシスコの新聞に載ったと書いている。

おそらくこのヒコとトーマスの合作した勇之助の遭難話が載ったのが、この「サンフランシスコ・タイムス・アンド・トランスクリプト」紙であったろう。その新聞からの転載を収録した「セーラーズ・マガジン」誌・1853年10月号(The Sailor's Magazine, Vol. XXVI, No. 2, October 1853)によれば、勇之助は、越後のヤター丸(Ya-tha-ma-roo、=八幡丸)に乗る船主・ジンタロー(Jin-tha-roo、=善太郎)の事務方として乗船していたが、日本暦(嘉永5年)9月1日(1852年9月、実際には10月)蝦夷地・松前を出港し本州西海岸のニーガタ(N-heeng-au-tha、=新潟)に向かう航海で、松前沖で日本海の凪に遭い、潮に流され津軽海峡を越え、嵐に巻き込まれ舵を折って遭難し、そこから東南東の太平洋上に5,600kmも漂流した。船荷は12万匹のシヲサケ(she-wo-sa-kee、=塩鮭)と飲み水と米少々だったが、漂流中はこれを食いつないだという。その間に12人の仲間が死亡し、ハワイのホノルルの北方830kmで、タヒチからサンフランシスコに向かうアメリカ商船・エマ・パッカー号(Emma Packer)に勇之助が1人だけ救助され、サンフランシスコに送られたと云う。

さてレディー・ピアース号は浦賀奉行の指示通り下田に向かったが、風向きと潮の流れが悪く入港できず、また浦賀に戻ってきた。バロースは浦賀で漂流民を受け取って欲しいと何回も願ったが、浦賀奉行は強いて下田行きを命じた。

バロースはやっと下田に上陸し、勇之助を連れて下田の町を見て歩いたが、奉行所では丁寧に応対し、必要な薪水食料の供給と勇之助の引き取りを話し、お互いに了解できた。この時の通詞は堀達之助である。バロースは、浦賀で必要品は貰ったから何も必要はないが、塗物、陶器、竹細工その他に興味があると伝え、勇之助も引き渡し、ぜひその日本の着物を着た姿を見たいとも伝えた。船員たちも上陸し、三弦様のもの(ギターかウクレレか)を引きながら歌を歌って楽しんだという。

奉行所では、勇之助に一重の着物2組と麻羽織、真田帯、下帯や手拭い、鼻紙まで与えたが、日本人の姿になると、勇之助は船乗りに似合わず言葉も振舞いもしとやかで、才気もあるように見えた。そして感謝の気持ちから涙まで見せた、と報告している。日本語の読み書きもでき、英語も少々読め、また船員たちとも話がよく通じ、通詞の堀達之助が分からなくなるとすぐ助け舟を出すほど英語もできた。こんな勇之助を見た下田奉行所の役人は、しばらく修業したらすぐ英語の通詞も務まるだろうと通詞の達之助も言っていると、江戸表に勇之助を通詞として推挙までしている。よほど好印象を持ったようだ。勇之助は1年半以上もアメリカ商船やサンフランシスコの沿岸警備船に乗ってアメリカ人水夫と一緒だったから、かなり英語を話せるようになったようだ。上述の「サンフランシスコ・タイムス・アンド・トランスクリプト」紙の記述にも、勇之助はおよそ22歳の若者で、見聞する全てのものに非常な興味を示し、知性の高い人物のようだと出て来る。ジョセフ・ヒコが記述しているように、サンフランシスコで会った時は刀を差した日本から来たお役人風だったし、八幡丸の積荷監督だったというから、若いがかなり教養のある人物だったのだろう。

奉行所では江戸からの指示に基ずき、このアメリカ船に漂流民を送り届けた礼として米、麦夫々10表ずつを与えようとした。バロースは感謝しつつも、バラスト石と水少々は欲しいが、食料は十分あるから米麦はいらないと断った。せっかくの江戸からの贈り物を断るとは、と役人と押し問答になったが、バロースはその代わり何か反物でも塗物でも、ここ下田にあるものを欲しいと答えた。奉行所は江戸の許可が必要と言い、バロースは長く待てないと言い、また押し問答になりかかったが、奉行所の判断で江戸の許可なく代替品を渡すことにした。米麦各10表は相場換金で11両1分あまりになるからと、その額に近い品物、硯1箱、盆10枚、猪口5箱、大平椀3箱、繻子帯地2本、縞絹2疋(=4反)、白絹1疋、染絹1反などを渡した。バロースは大喜びし、お礼に新版諸国評判記、酒、砂糖漬、唐茄子、地図古本などを贈り、6月30日の午後3時ころ、支那に向かって下田を出航した。

後日バロースは、日本側のこんな友好的な対応を非常に高く評価するコメントを残している。

また香港に着いたバロースから、1854年9月1日(嘉永7年7月8日)付けの手紙と一緒に、勇之助がレディー・ピアース号に忘れていったものだと、勇之助の身の回り品や下着類の入った木箱が、下田に入港した軍艦・ミシシッピー号のリー艦長に託され送られてきた。ミシシッピー号は、ペリー提督の結んだ和親条約の履行や下田の準備状況を確認し、更なる友好を深めるため寄港したものだったが、バロースの誠意が表れた好意ある行動だった。

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04/15/2018, (Original since 10/16/2010)