日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

マンハッタン号とクーパー船長
  (全ページを書き直した)


クーパー船長が乗組んだマンハッタン号。
Image credit: Courtesy of 「The Southampton Magazine」,
Spring Number 1912

マーケイター・クーパー船長指揮のマンハッタン号は、ニューヨーク州ロングアイランドのサグ・ハーバーを母港とする捕鯨船である。当時1840年代から1850年代は、アメリカの捕鯨船が活発に太平洋にまで乗り出し、鯨油を採るため捕鯨を行った。鯨油は機械用の潤滑油として、またローソクの原料として重要な資源だった。また鯨のヒゲは女性のスカートに入れて丸みを強調するファッション材料にもなった。1803年生まれのクーパー船長は、日本に来た当時は42才の熟練船長であったが、この1843年から1846年までの航海で、鯨油3,500樽を収穫している。

 クーパー船長の航海記録から、日本人救助と浦賀入港まで
(典拠:「The Southampton Magazine」, Spring Number 1912, Edited by Charles A. Jaggar, Ph D., Published by The Southampton Press, Southampton N. Y., Volume 1, No.1, P-3-23

1843年11月8日サグ・ハーバーを出航したマンハッタン号は南米の先端のケープ・ホーンを回り太平洋に出て、1年以上も鯨を追いかけた後、1845年2月12日に小笠原群島の父島に到着した。ここで1ヵ月かけ船の修理をし、薪や水、野菜や豚を補給した(筆者注:当時アメリカでは、小笠原群島をボニン諸島、父島をピール島と呼び、二見港はポート・ロイドと呼んだ。後の1853年ペリー提督がここに石炭置き場を購入した)。3月12日に父島を出航後、塩漬け肉しか食べていない船員のために新鮮なウミガメの肉を手に入れようと、八丈島の南南東に約300km、父島の北北西に約420kmの太平洋の真中にある伊豆諸島の鳥島(筆者注:当時アメリカでは、セント・ピーターズ島と呼んだ)に立ち寄った。現在この鳥島全体が天然記念物に指定され許可なしに立ち入ることは出来ないが、周囲7kmほどの火山島は当時も無人島だった。

1845年3月15日早朝マンハッタン号は鳥島に近づき錨を入れ、クーパー船長達は上陸した。ウミガメを探して海岸を回ると支那のジャンクに似た小さい難破船を見つけ、内陸に向かうと人の気配がし、変わった衣服を着た11人もの数ヵ月前に漂着したと見受ける日本人にめぐり合った。11人は充分な量のコメを持っていたが、水はなく岩に溜まったものを飲んでいた様だった。クーパー船長たちは目的のウミガメを捕ったかどうかマンハッタン号の航海記録には記述が無い。


クーパー船長が救助した、船尾が壊れ沈没しかけた漂流船から
救助された乗組員がマンハッタン号に持ち込んだ日本沿海図。
(2004年6月21日、New Bedford Whaling Museum
特別展で、管理職員の許可の元に筆者自身が撮影した。)

Image credit & © : Courtesy of New Bedford Whaling Museum
( https://www.whalingmuseum.org/ )

鳥島で11人の漂着者を救助したマンハッタン号は日本に向け針路をとったが、翌16日の昼頃また日本人が11人も乗った船尾が壊れ沈没しかけた漂流船に出会った。この船は大きい立派な塩サケを積んだ船だったが、いくらかの積荷や米や船具と共にこの11人も救助した。この難破船から持ち込んだ積荷や乗組員の持ち物の中に、非常に立派で精密な子午線も入れた日本沿海図と日本製の小さいコンパスがあった。後にこの地図とコンパスはマンハッタン号と共にアメリカに渡る事になるが、下の「サグ・ハーバーの現地新聞報道」の最後に述べる、ハワイ、マウイ島・ラハイノナの医者・ウィンスロー博士のオアフ島ホノルルの現地紙「フレンド」に掲載された記述によれば、浦賀に上陸した日本人漂流者達がクーパー船長の捕鯨船の内部に忘れていった物であると言う。

伊能忠敬が苦心の末に実測し「大日本沿海輿地全図」を完成させたのが文政4年即ち1821年であるが、それから24年後の当時、又シーボルト事件から17年後の当時は、既に縮小された精密な日本沿海図が一般の廻船で普通に使われていたのであろうか。左の写真がその漂流者がマンハッタン号に持ち込んだ実物で、現在マサチューセッツ州のニュー・ベッドフォード捕鯨博物館に収蔵されている。筆者の目測で、寸法はおよそ1m x7 0cm程であった。この日本沿海図は捕鯨船にある地図より遥かに精密で、房総半島辺りから浦賀にかけて、クーパー船長の観測と完全に合致したという。

この捕鯨博物館所蔵の地図について最近(2021年)読者の群馬県在住のS氏からご指摘を受け、『鎖国時代、海を渡った日本図、大阪大学出版会』を確認し、捕鯨博物館所蔵版のイメージと比較たところ、一部を除き虫食いや汚れ、摩耗があまり見えずほゞ良好な状態から見て、長久保赤水作製による「改正日本輿地路程全図」の天保11(1841)年改訂版かそれに近い物の様である。寛政3(1791)年改訂版は最下段左隅に発行時期と鐫字者及び発行者の名前を入れた囲みがあるが、この捕鯨博物館所蔵の地図には最下段左隅の囲みが見えない。然しこの捕鯨博物館所蔵の地図は、長久保赤水製作の日本輿地路程全図の系列である事はほぼ確実に見える。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の一般利用が始まったのは、明治になってからであると言う(『海を渡った日本図』)。当時伊能図以外の、この様にかなり正確な、しかも緯線も経線も入った地図がコンパスと共に日本の船乗りの間で使われていた事は驚きである。京都中心の京都御所紫宸殿の位置は北緯35度1分27秒、東経135度45分44秒であるが、この捕鯨博物館所蔵の地図の北緯35度の緯線はほぼその辺りを通り、度数が入っていない経線も京都を通っている。当時は勿論「本初子午線」の国際規定などは無く、京都の三条改暦所(北緯35度0分35秒、東経135度44分14秒近辺)を通る子午線を経度の基準(=0度)としたと言う。

1851年にクーパー船長が、日本に行く前のペリー提督宛ての手紙でこの日本沿海図を持っている事を示唆したが、筆者の知る限りペリー提督は反応しなかった。ペリーの認識は、日本には子午線を入れた地図などはないと帰国後の報告書「ペリー提督日本遠征記」の中の Chapter XVIII, P-326 に書いている。

少し横道にそれたが、こうして救助した22人もの日本人を何とか日本に送り届けようと考えたクーパー船長は、日本に向け針路をとった。しかしその航海の途中では、7日間にわたり嵐に翻弄され強い潮流に流されたが、3月23日の夜に日本と思われる明かりを認めた。終に24日朝10時頃房総半島に近づき、陸と並走しながら近辺の様子を観察した。周りには多くの漁船が居て、陸地は良く耕されている様に見え、小ぎれいな村々が見えた。緯度を「35.09」と記入しているから現在の千葉県勝浦市勝浦の辺りである。翌日の3月25日午後1時頃、周りに数艘の漁船が居るのを見てボートを降し、先ず2人をその中の1艘に託し、江戸に行き、救助した船員たちを受け取ってくれる許可を得る事を期待し上陸させた。これは現在の千葉県勝浦市興津辺り(筆者注:日本側史料で、上総国夷隅郡守谷村)である。更に少し南下し夕方5時頃また2人を江戸に向け上陸させた。多くの漁船が周りに集まり見物したが誰も乗船してくる気配は無かった。航海記録には緯度を「35.00」としているから、現在の千葉県南房総市千倉町辺り(筆者注:日本側史料で、安房国朝夷郡南朝夷村)である。これは鎖国に基づき遭難した日本人さえ容易に受け入れない徳川幕府の方針を知っていたクーパー船長の作戦で、あらかじめ人道的に漂流民を江戸湾内にまで送り届ける意図を役人に知らせる目的であった。

翌3月26日朝9時頃まで陸地近くを操船していたが、霧が立ちこめて来たので安全のため陸地から離れた。その後天気が崩れ、嵐や豪雨に見舞われ、早い潮流に流され、勝浦の南東方向へ400〜450q程の距離を22日間もさまよった。その間に伊豆大島の噴火なども観測している。

終に4月16日の早朝6時に再度陸地を認めたが、10時ころには日本の船が来て、江戸湾に行き停泊すべく伝えて来た。翌17日の早朝5時ころ再度大型の日本船が来て、オランダ語通詞を連れた役人が江戸に向かう様に指示を出したので、午後5時頃江戸湾入り口の東側に来て錨を入れ停泊した。恐らく洲崎(すのさき、千葉県館山市)の北側辺りであったろうか。4月18日の午後3時頃風がやみ凪になったので、夫々に約15人が乗組んだ凡そ300艘もの小舟が集まりマンハッタン号を時速3ノット(筆者注:約5.5q/時)のスピードで牽引し、午後6時半ころ江戸より下手の湾(筆者注:浦賀)に引き込んだ。そしてマンハッタン号の廻りを小舟で三重に取り囲み、約3千人の男たちが警備体制を組んだ。クーパー船長は通詞から、誰も上陸は許されないと告げられた。役人が、出帆時に返すべくマンハッタン号の全ての武器を預かり、また上級役人が数人乗船し捕鯨船の中を見分したが、彼らは非常に友好的な態度だった。

翌19日には多くの役人が船を見に来たが、午後には船首三角帆の下桁用と3組の自動操舵帆の下桁用に使う丸木材を運んで来てくれた。嵐の最中に折れてしまい交換の必要があったものだが、クーパー船長が日本の役人に手配を頼んだのだろう。クーパー船長の航海記録によれば、4月20日には日本側から水を運び入れ、20袋のコメ、2袋のムギ(筆者注:20袋の誤り)、1箱の小麦粉、11袋のサツマイモ、鶏50羽、2束の薪、大量の大根、10ポンドのお茶等をくれた。大量の30cm以上もある大根には、乗組員の皆がビックリした。日本側の提供した全ての補給品は無料だった。そして救助した残りの18人の日本人全員が上陸したが、役人が来て漂流者を救助し送り届けてくれた事を感謝した。4月20日の航海記録には、「皇帝も私に挨拶状を与え、私の日本人救助と送還への感謝の言葉を述べたが、ここにはもう来るなと言う言葉も一緒だった」と記録している。

4月21日の朝錨を揚げ、300艘の日本のボートが牽引して湾の外に出て、マンハッタン号を開放した。その後クーパー船長は北上し、カムチャッカ半島近辺で捕鯨を続け、多くの成果があった。

 クーパー船長の帰港を報ずる、サグ・ハーバーの現地新聞報道
(典拠:「The Corrector」, November 21, 1846, Page 2

マンハッタン号の母港・サグ・ハーバーの現地紙「コレクター(The Corrector)」は、1846年11月26日付けの第2面の紙上で、「先般本港に帰港したM・クーパー船長は本紙に次の如く語った」との書き出しで、その帰国と体験談を伝えた。いわく、

1844年4月18日、南緯5度20分・東経126度40分の海上で3m 位の小舟に乗ったマレー人の男を救助した。彼は10日間も陸地の見えない海上を漂流し、船にはココナツのかけらとトウモロコシの皮があっただけである。4月20日、我々はボロ―島に停泊し、彼が故郷に帰るべく上陸させた。1844年7月13日の午後3時、霧が晴れると、今まで見たどんな海図にも載っていない島を見つけた。我々は島から10から15マイル離れた、北緯48度30分・東経157度50分近辺に居ると判断した。その島は中くらいの高さで、平ではなかった。微風の中を接近する途中で霧が立ち込め進路を変えざるを得なくなったが、それ以降他の船にも確認された。

更に続けて、1845年3月15日にセント・ピーターズ島、即ち鳥島に至り、日本人を救助し浦賀で日本側に引き渡したと上述の通りの出来事を語り、そこに4日間停泊し、皇帝から多くの薪水食料を無料で贈られたと語った。続けていわく、

我々の停泊中に非常に多くの役人が船を訪れたが、奉行も何回も訪れて来た。彼らは大変友好的で、あらゆる情報を収集し、絵師を連れて来て目に留まるあらゆるものをスケッチさせた。彼らは特に念を入れて船の寸法を計り、モリを計り、目にするあらゆるものを計った。

更に、最後の出帆時も多くのボートに引かれ湾外に出た事を述べ、出帆に当たり日本の皇帝から渡された「諭書」の翻訳を載せている。このしっかりした達筆のオランダ語で書かれた日本の諭書は、クーパー船長や乗組員には読めなかった。そこで翌年の帰国に当たり、鯨油を売るためオランダのアムステルダムに寄港し、オランダ語を英語に翻訳してもらっている。これが引き続きコレクター紙に載ったものである。いわく、

遭難者を通じ口伝えに耳に届いたが、我が国の遭難者がこの船で届けられ、船上では親切に待遇されたという事である。支那とオランダを除き、遭難者は如何なる外国を経由しても受取らない事が我が国の法である。しかし、恐らくこの法を知らないため遭難者を送って来たと思われる事から、今回だけは受取る。従って次からは絶対に受け取らず、何時送って来ても厳罰を以て罰する。良くこれを知り、他国にも知らすべし。
長い航海において船の食料、薪、水が底をついたと聞く事から、これらを与える。
この諭書の命により、船は早速出帆し、近海にとどまらず、まっすぐに帰国すべき事。

この記事から分かる通り、およそ3ヵ年にも渡り太平洋やその他の海で捕鯨をやったマンハッタン号に乗るクーパー船長は、2組の日本人以外にもマレー人の漂流者も救助するという善行もあったのだ。


1842年当時、捕鯨船の停泊するラハイナの町
Image credit: © Courtesy of the Old Lahaina Courthouse,
Lahaina, Maui, Hawaii

尚このクーパー船長が日本人遭難者を救助し江戸近くまで送った話は、ハワイのマウイ島・ラハイノナの町の医者・ウィンスロー博士が、その後ラハイノナ港に寄港したクーパー船長から直接詳細を聞き、1846年2月2日付けのオアフ島ホノルルの現地紙・「フレンド(The Friend)」にその内容が掲載された。マウイ島の西岸にあるラハイナは、北のモロカイ島、西のラナイ島、南のカホオラウェ島に囲まれ波が静かで、太平洋の真ん中にあり、右側の絵の様に、当時多くの捕鯨船が集まる重要な補給基地の一つであった。

また、このフレンド紙からの転載が、広東で発行されていた「チャイニーズ・リポジトリー」誌・15巻・1846年1月−12月(The Chinese Repository)にも載った。従って当時の識者の間では、良く知られたニュースだった様である。

 日本側記録による、漂流者の受け取り

鳥島で日本人22人を救助したマンハッタン号が、4人の日本人を先づ上陸させたのち嵐にあって流されたのは、上陸させた漂流者が役人に報告し幕府が検討し許可を出す時間を確保でき、結果的に非常に良かったわけだ。

安房国朝夷郡南朝夷村(現、南房総市千倉町)へ上陸した2人の漂流民と上総国夷隅郡守谷村(現、勝浦市興津)へ上陸した2人の合計4人が役人の調べに応じ申し立てた記録がある。鳥島で救助されたのは阿波国板野郡撫養(むや)四軒家町天野屋兵吉船に乗り組んだ主水・芳蔵と幸助であり、海上で救助されたのは下総国銚子幸太郎船に乗り組んだ主水・太郎兵衛と留吉であった。この4人の申し立ていわく、

鳥島で救助された11人乗り組みの阿波国板野郡撫養・兵吉船(幸宝丸)は弘化元(1945)年12月26日国許を出帆し、紀州田辺沖で嵐に遭って吹き流され、積荷を投棄し帆柱を切断し漂流したが、1月13日、ある島に漂着した。本船を保持できなくなり小舟に粮米15俵、鍋釜、衣類等を積み入れ、島へ上陸した。そこは無人島で、大木は無く草木もなかったが、アホウドリが沢山生息していた。そこで沢山自生していた篠笹を岩と岩の間にかけ渡し、その下で露をしのいだ。2月8日になり異国船が近づいて来たので最初は殺されはしないかと警戒し隠れていたが、島に12人が上陸して来たので仕方なく姿を現し、手まねで救助を頼んだ。異人も状況が分かり、国に送り返すので船に乗るよう手まねで応じた。そこで粮米や身の回り品を船に運び乗り込んだ。
島を出帆した翌日の9日、また難船し漂流中の日本船に出合い、ボートを2艘降ろし乗組みの漂流者を救助した。話を聞くと下総国銚子幸太郎船(仙寿丸)で11人が乗っていた。この船は弘化2(1945)年1月11日に南部を出帆したが嵐に遭い、荷物を捨て帆柱を切り漂流し、浸水して沈没しそうな水舟になったが2月9日救助された。粮米10俵、鍋や衣料などを異船に積み込んだが、乗り移ってみると阿州撫養(むや)の船の乗組員も救助されていて一緒になった。
弘化2年2月17日朝、即ち1845年3月24日朝、東房州の山が見え、段々陸地が近づいてきたので上陸させて欲しいと手まねで頼んだが、外海のため上陸が困難で船の破損を恐れている様子で、上陸のためには内海へ入る必要があると手まねで答えた。異船が内海へ乗り入れれば問題が起きるので相談の上、先ず浦賀へ注進のため太郎兵衛と芳蔵が漁船に頼んで守谷村に上陸した。その後、守谷村から浦賀迄20里もあり、その日の内に異船が浦賀に着くと異船の方が先になり問題が出るという話になり、そこで再度幸助と留吉が漁船で南朝夷村へ上陸した。
異国船の大きさは16、7間あり、乗組員の頭分は常にラシャ製の服を着、皆は背が高く、眼の色は夫々で、頭髪は長くしていた。船内には3挺の鉄砲と鯨を取るモリが16本ばかりあった。乗組み22人の中には、大工、鍛冶、桶職が乗り組んで居た。日本人を慰めるためか毎晩三味線風の楽器を鳴らし踊りを踊ったが、拍子も良くおもしろかった。段々心安くなり、自分達も伊勢おんどを踊ったところ異国人も大いに笑っていた。世界地図を見せ色々言っていたが意味が分からなかった。異人の乗組員の中に4人の黒人が居て、顔色のうす黒い人は2人だった。
海上で救助された銚子船には船頭の11歳になる「勝」という名の息子も居て、直ぐ異国船員と親しくなった。
浦賀では警戒を強めたが先に上陸した4人の情報で軍船ではなく、異船内にまだ日本人が居るという事なので、浦賀に入港させる話になった。しかし異船は行方不明になってしまい、浦賀の防衛に恐れをなして消えてしまった可能性があるので、浦賀から船を出し、異国船を入港させる手配になった。

報告を受けた江戸詰めの浦賀奉行・土岐丹波守は、「何れの国の船ともわからないが、とにかく鯨漁船であり、蛮国の漁民が他国の人を助けようと自分の仕事を止めてまで誠意をもって送って来たのに、彼の地・浦賀で受け取らないのは、自国の人民を捨てるも同様であります」と、漂流民を浦賀で受け取るべく何度も幕閣に意見を述べた。当時の幕府の中心人物は、弘化2年2月22日即ち1845年3月29日、老中首座になったばかりの阿部伊勢守だったが、この伊勢守さえも漂流人の処置を即刻判断したのではなく、勘定奉行たちの評定所一座の評議に廻し、大目付や目付の評議に廻し、長々と時間をかけた末の決定だった。

当時の幕府規則は、天保13(1842)年に出された「薪水給与令」で、翌年オランダを通じ諸外国に伝えられ、漂流者は長崎のみでの受取りが許されていた。従って評定所一座や大目付や目付の評議は、新しい薪水給与令に基づき漂流者は浦賀では「受取らず、長崎に回すべし」という結論だったがしかし、最後に阿部伊勢守は諸事情を考慮し、土岐丹波守に直接指示をし浦賀での受取りを認めたのだ。 この時弘化2年3月12日(1845年4月18日)に出された阿部伊勢守から江戸詰め浦賀奉行・土岐丹波守に出された「土岐丹波守へ相達し候覚」という指示は次の様なものだ。いわく、

外国への漂民ども取受け方の義につき、去々卯年相触れ候趣もこれあり候へども、このたび渡来の異国人ども、右の趣いまだ相弁じ申さざる義にもこれあるべく候間、このたびは全く一時の権道を以て、漂流人浦賀表に於て受取り、去々卯年相触れ候通り、向後たとへ漂流人連れ越し候とも受取るまじき旨通弁を以て申し諭し、食料、薪水等相与へ、そのほか万端の取計ひ方、いづれにも図を失せず、後患を残さざる様、厚く相心得、取計らひ候様いたさるべく候こと。
一、右の通り相達し候。つきては明十三日浦賀表へ出立いたし、異国船早々帰帆し候様取計らひ申さるべく候。帰帆相済み候はば、委細の始末相尋ね候義もこれあるべく候間、少しも早くひとまづ帰府いたし候様心得らるべく候こと。
  三月十二日

クーパー船長が幕府から贈られた漆器。
(2004年6月21日、New Bedford Whaling Museum
特別展で、管理職員の許可の元に筆者自身が撮影した。)
Image credit: © Courtesy of New Bedford Whaling Museum
https://www.whalingmuseum.org/

この様な経緯で弘化2年3月12日、即ち1845年4月18日、浦賀に着いたマンハッタン号のクーパー船長は残りの18人の漂流者を役人に引き渡し、幕府からおおいに感謝され、充分な薪水や食料を与えられ、色々な贈り物も貰った。日本側の記録「史料稿本」によれば、上記のクーパー船長の航海記録に出て来る日本からの贈り物以外の細かい記録がある。いわく、

白米−20俵、小麦粉−2斗、ニンジン−200本、鶏−50羽、中皿−20人前、金入切子−品々、薩摩芋−1俵、大平目−2枚、水−300荷、上搗麦(つきむぎ)−20俵、大根−千本、松真木−200本、上吸物椀−10人前、茶漬茶碗−21人前、茶−5斤、大蛸−1杯、杉材木−4本、から藁(わら)−10把、

こうしてクーパー船長は、弘化2年3月15日、即ち1845年4月21日、浦賀を後にした。170年後の今でもアメリカのマサチューセッツ州ニュー・ベッドフォード市にある捕鯨博物館には、クーパー船長が幕府から贈られた漆器や、救助した日本人が持っていたコンパスや、日本製の子午線まで入った精密な日本沿海図が保存されている。

このクーパー船長の浦賀入港から9年後、江戸幕府と日米和親條約を締結する事になるペリー提督は、その日本遠征の出発に先立って、浦賀に行ったクーパー船長から日本情報を得ている。その時クーパー船長はペリー提督に書簡を送り、捕鯨の観点からもぜひ日本の開国が必要だと意見を述べている。

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06/23/2021, (Rewritten 08/15/2019, Original since 08/04/2010)