日米交流
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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

オランダ東インド会社の「長崎入港手続き」に関する命令

 セーレムの商船・フランクリン号への「長崎入港手続き」命令
(典拠:「The Ships and Sailors of Old Salem」by Ralph D. Paine, The Outing Publishing Company, New York, 1908)


セーレムの商船・フランクリン号とデヴェロー船長
Image credit: © "Old Shipping Days in Boston",
State Street Trust Company, Boston Mass,. 1918

アメリカのセーレムの商船・フランクリン号(200トン、ジェームス・デヴェロー船長)は1799年4月にバタビアに入港したが、オランダ東インド会社が長崎行きの傭船を探していることを知った。デヴェロー船長は6月16日にオランダ東インド会社と傭船契約を結び、オランダの傭船として、オランダ東インド会社の日本向け交易品を積んでバタビアを出港し、1799(寛政11)年7月20日に長崎に入港した。下に書く複雑な入港手続きを踏んで長崎の出島に着船後、オランダ船として約4ヶ月も滞船し、日本からの交易品を満載しバタビアに帰った。

この時フランクリン号の乗組員達も脇荷貿易に預かり、多くの日本産の物品を買ったようだが、デヴェロー船長自身も漆塗りの箱、各種の盆、鳥かご、扇子、樟脳、組机、彫刻衝立などをセーレムに持ち帰っている。脇荷貿易は、オランダ東インド会社と日本との本貿易の積荷以外に、空いた場所に積むことが許された個人貿易である。傭船される目的は当然傭船料収入であり、脇荷貿易ではない。この時の傭船料は、コーヒー、砂糖、胡椒、香辛料、藍、錫、桂皮、ナツメグ香料等3万ピアストル相当の現物で支払われた。

アメリカのマサチューセッツ州セーレムはボストンの北東23kmにある古くからの港町で、フランクリン号もセーレムを母港にし、東洋貿易に活発に参加した船の一つである。セーレムからは広東、インド、バタビア、スマトラ、マニラ、マダガスカルなどに多くの交易船が出て、危険を顧みず活発に交易を行った。セーレムのこのフランクリン号の船主からデヴェロー船長には、ジャワ・コーヒーを満載し、あらゆる可能な探検をし情報収集して帰るよう指示が出されていた。そして船の幹部乗組員のみならず一般船員たちにも、次のような報奨制度を適用すると船長に明示されていた。いわく、「我々船主は、貴君配下の一等航海士に2トン、二等航海士に1.5トン、三等航海士に1トンの個人積荷を許可し、一般船員には個人用大箱1つの積荷を許可し、それ以外は許可しない。貴君には本航海全利益の5パーセントを与えるので、船腹満載で帰国すること」。従ってバタビアからオランダ傭船として長崎に行く事は、ジャワ・コーヒー貿易以外の利益をもたらす、許可されたサイド・ビジネスだったのだ。

フランクリン号がオランダ傭船としてバタビアから長崎に向け出航するに当たり、バタビアのオランダ東インド会社からデヴェロー船長に宛て、長崎入港手続きが細かく指示された。当時の代表的な航路の一つは、バタビアから真直ぐ北上してベトナムの南端をかすめ、北東に進路とって南シナ海を北上し、台湾海峡を過ぎ、長崎を目指すものであった。フランクリン号がこの通り航海したかは不明だが、この長崎入港手続きの指示いわく、

北緯26度から27度に達した時(筆者注:台湾海峡を通過後、沖縄の西方500km近辺を通過する頃に当たる)、日本の役人が習慣と定めたオランダ船の全入港手続きを行う準備を整える必要がある。
  1. 入港に際し船を飾る満船飾を調えること。

  2. 乗り込んでくる役人用に、後甲板に布で覆ったテーブルを一脚と座布団を2枚準備すること。

  3. 乗客や士官を含め、全乗組員の名前、所属と年齢を書き込んだ表を必ず準備すること。

  4. 士官も含め全員の持つ書籍、特に宗教関係の書籍は樽に入れ、樽の口を上にして置くこと。日本役人がそれを封印し陸揚げする。船の出航時には、封印したまま再び船に積み込み返却する。

  5. 日本到着前に全員の現金を預かり、出航するまで保管すること。日本では自国の現金で何も買えないから不便にはならない。物品購入は各自が自国通貨を脇荷金(Cambang money)に換えて買うが、この通貨交換は船長によってだけ許される。

  6. 日本が見えてきたら、オランダ船の如く、オランダの旗艦を示す小燕尾旗とオランダ国旗を適切に掲揚すること。

  7. 右舷に伊王島(Cavalles)が見え左舷に日本の島が見えたら、9発の礼砲を撃って伊王島の遠見番所に敬意を表すこと。

  8. 左舷の高鉾島(Papenburg)を過ぎたら、9発の礼砲を打つこと。

  9. 右舷と左舷とほぼ同時に皇帝の番所を通過するから、まず右舷だけで7発か9発、次に左舷だけで同数の礼砲を打つこと(筆者注:右舷は戸町、左舷は西泊の沖の番所と思われる)。

  10. 次いで長崎港に向かって進入し、碇を入れて13発の礼砲を打つこと。

  11. 伊王島以内に入ると商館長の代理人が乗船してくるから、9発の礼砲で迎えること。出来たら同時に、彼らへの挨拶として帆桁に旗を引き揚げるとよい。船を飾る万国旗は、スペインとポルトガル以外なら何でも良い。しかし、オランダの船として、常に適切な場所にオランダ国旗掲揚を忘れないこと(筆者注:通常、奉行所の検閲の船・検使船に奉行所の役人、オランダ通詞、出島のオランダ人2人が乗り込み、港内の船着場から漕ぎ出して来たと聞く)。

  12. 代理人が岸に戻る時、9発の礼砲を打つこと。

  13. 礼砲を発する時、船の周りの日本のボートには、彼らを傷つけないよう特に良く知らせること。事故を起こせば重大問題になる。

  14. 碇を入れ礼砲が終わった後、役人は提出されたリストを検査し、乗船人員と照合確認する。役人の点検が終わると希望者は上陸できるが、役人が陸に戻る前に全ての武器と弾薬類は陸揚げしなくてはならない。船荷を陸揚げした後役人が船を検査するから、こういった物は、全数陸揚げする事が適当である。長崎出航に当たって、陸揚げし保管した物は全て返却される。若し手違いにより火薬や銃が船に残った時は、陸上保管中の武器類が返却されるまで、ピストルといえども発砲しないよう十分注意しなければならない。

  15. その他の儀式については、オランダ商館の担当者が指示する。

このようなオランダ船の長崎入港手続きは、オランダに傭船された他のアメリカ船にも同様に通達されたに違いない。長崎入港には必ずオランダの国旗を掲げ、検使船へはバタビヤで調えた別段風説書と積荷目録、乗員名簿、オランダの書簡など必要書類の提出が求められた。また入港儀式として、上記だけでも合計67発もの礼砲を打つわけだから、大量の火薬が必要だったようだ。

(参考) このフランクリン号の2年前、1797(寛政9)年に第1回目の中立国傭船として長崎に来たイライザ号(600トン)の船長・スチュアートへも、同様な「長崎入港手続き」指令書が出されている(『寛政九年アメリカ傭船イライザ号初度の長崎来航』、金井圓。東京大学史料編纂所報第12号(1977年))。内容はフランクリン号への指示とほゞ同様であるが、満船飾の用意を始める海上の位置や、陸揚げする火薬や銃剣の数量に違いがある。

 C.P.ツュンベリーの「長崎入港手続き」の記述
(典拠:「江戸参府随行記」、東洋文庫、1994)

ツュンベリー(Carl Peter Thunberg)は長崎出島のオランダ商館付き医師として、1775(安永4)年6月20日バタビアを出航し8月14日に出島に着いた。上述のフランクリン号より24年前の話だ。日本への航海、江戸参府への旅、日本と日本人などについて記述したツュンベリーの「江戸参府随行記」の中に、長崎入港の際の様子が載っている。いわく、

長崎港の入口に投錨した。・・・この日、船員らは所有している祈祷書や聖書を集め、一つの箱に入れ、その箱を釘付けにした。次いで箱は日本人に渡され、帰航まで保管される。・・・甲板に、カーテンなしの天蓋つき寝台席が設けられた。船にやってくる日本人の上級役人が座るためである。乗組員およそ百十人と奴隷総勢三十四人からなる全員の名簿ができあがった。名簿には各人の年齢も書き込まれており、日本人に提出される。しかし出身地は書かれない。・・・入港するとすぐに、全乗組員はこの名簿に従って日本人の点呼を受ける。その時陸から小舟が一艘こちらへ近付いてくるのが見えた。・・・小舟には、滞在の商館長の代理として商館から荷蔵係り一人と補助員三人が乗っており、我々の到着を祝った。・・・我々の入港を綺麗にするために、船に多種多様の長旗や短旗を掲げた。港の両端にある幕府の御番所に近付くとすぐに、我々は礼砲を放った。・・・ようやく投錨の場所に到着し、昼頃、碇を下ろしおおいに喜んだ。・・・前述の商館から派遣された人々が帰路につき、会社や個人あての手紙を持って行ったあと、しばらくして、今年日本に滞在した商館長が乗船してきた。彼に従って、今到着した商館長、船長、荷蔵係そして補助員は商館へ向かった。・・・船が碇をおろすために進み、長崎の町へ我々の礼砲を放つとすぐに、日本の上級役人(上検使)二人と次席役人数人が、通詞と従僕を連れて船にやってきた。検使らは設けられていた寝台席の方へ歩いた。席の上には日本の厚い畳がおかれその上は更紗で覆われていた。

以上のように、フランクリン号のデヴェロー船長へ指示された入港手続きは細部までの記述があるが、その24年前のツュンベリーの場合も、基本的な入港手続きは全く違っていなかったように見える。

 フェートン号事件後の規則強化と秘密記号の導入

文化5(1808)年8月、イギリス軍艦・フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、オランダ船入港手続きに従ってやって来た2人の出島商館員を捕虜にし、長崎港内に停泊中のオランダ船を拿捕しようと探し回るという事件が発生した。当時の長崎警備役の鍋島藩は十分な警備兵が居ず、長崎奉行の出したフェートン号拿捕命令を遂行できなかった。オランダ船を見つけられなかったフェートン号はオランダ人捕虜と引き換えに水や食料を要求し、長崎奉行から要求を勝ち取ると直ぐに出航した。この結果、責任を取った長崎奉行・松平康英(やすひで)は切腹し、十分な警備兵を置かなかった鍋島藩の家老も切腹した。

この事件の後、長崎奉行所により入港規則が次のように強化された。いわく、

  1. 異船発見の際はのろしを使い、野母から小瀬戸に、小瀬戸から長崎に、と伝える。
  2. 異船に掲げられた国旗により、オランダ船と他国船を区別したのろしを使う。
  3. のろしにより、出島のオランダ人2人は日本側の検使と共に番所で待機し、オランダ船の場合はオランダ人と日本側検使ともその船に行く。他国船の場合は、日本側検使のみその船に行く。
  4. 入港した異船は国籍に関係なく、一旦伊王島の側に停泊し、後命を待たせる。
  5. 奉行所は秘密割符(わりふ、=文字や印鑑を捺印した紙を二分し、一方を相手に渡し一方を手元保管する)法を定め、オランダ船出航の際、オランダ商館長より年々新たな割符を船長に渡し、翌年の入港時にこれを持参させる。

幕府もまた長崎奉行に命じ、最近起りつつあるヨーロッパやアメリカの形勢をオランダ商館長・ドゥーフに尋問させた。また、新しい台場も増築された。

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02/23/2021, (Original since 01/31/2011)