日米交流
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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

大政奉還に関わる八項目の建白

慶応3(1867)年10月3日に後藤象二郎を通じ山内容堂から将軍・徳川慶喜に出された建白書の大政奉還に関する八項目は、以下のようなものだった。

  1. 天下の大政を議定する全権は朝廷にある。すなわち、我が皇国の制度法則の一切にわたる全ての政務は、必ず京師の議政所より出すべきである。
  2. 議政所は上下に分け、議事官は上は公卿より下は陪臣庶民に至るまで、正明純良の士を撰挙すべきである。
  3. 学校を都会の地に設け、長幼の順序に分け、学術技芸を教導せねばならない。
  4. 一切の外国との規約は、兵庫港に於いて新たに朝廷の大臣と諸外国と議論し、道理明確の新条約を結び、誠実の商法を行い、外国との信義を失わないことを主要とすべきである。
  5. 海陸の軍備は一大至要である。軍局を京攝の間に築造し、朝廷守護の親兵とし、世界に比類なき兵隊とする事を要する。
  6. 中世以来、政刑は武門から出た。西洋の軍艦来航以後、天下が乱れ、国家は多難になり、ここで政権が動いた。これは自然の勢いである。今日に至り、古来の旧弊を改新し、枝葉に関わらず、小条理に止まらず、大根基を建てる事が主要である。
  7. 朝廷の制度や法則に昔からの律例があっても、方今の時勢に照らし、不適当なものもあろう。宜しくその弊風を一新し、改革して、地球上に独立する国の基本を建つべきである。
  8. 議事に関わる士太夫は私心を去り、公平に基ずき策を弄さず、正直を旨とし、既往の是非曲直を問わない。古いものを改め、新しく始め、今後の事を見極める必要がある。言論のみ多く実効が少ないという通弊を繰り返してはならない。

右の条目が、恐らくは、当今の急務であります。内外各般の要は、これを捨てて他に求むべきものはないと思います。

と建白した。これを見ると、前年の慶応2(1866)年に発行された福沢諭吉の「西洋事情・初編」に影響を受けたと思われる部分もあるが、この八項目のうち、朝廷に大政を奉還することと、上下の議政院を造るという最初の二項目が重要点である。しかしこの建白書の中には、徳川慶喜の将軍職辞任までは明記建言されていない。

この上下二院を造る議会制度に関し、後藤は勿論、容堂自身もイギリス公使館の通訳官・サトーから直接情報を仕入れている。後藤は慶応3(1867)年8月8日土佐の須崎港を訪れたサトーを訪ね、議会を造るという考えを話し、英国をモデルにした憲法を造るアイデアを話している。そして、薩摩藩の西郷吉之助も同じような考えを持つことも話した。サトーは、この直後に高知に招かれ、山内容堂と会った。この席でも容堂と後藤は、ルクセンブルク大公国の憲法、議会の権限、選挙システムなどについて熱心に聞いている(「A Diplomat in Japan」)。それまでフランスなどの統治下にあったルクセンブルクは、1815年のウィーン会議の結果、国を大公国に昇格させ自治を回復し、民主主義に基づいた政治システムをつくり、1839(天保10)年の初回ロンドン条約で領土の独立と政治的な自治権を獲得した大公国だから、そのシステムに大いに興味があったのだろう。後藤象二郎は、こんな詳細な情報まで持ち、新体制を研究していたわけだ。

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07/04/2015, (Original since 02/20/2009)