日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ヘンリー・スネルとエドワード・スネル兄弟(シュネルとも)

スネル兄弟(シュネルとも)は、幕末から明治の初めにかけて日本と関わった実在の人物だが、この兄弟ほどその経歴や活動が良く分からず、現在に至るまで多くの情報が飛び交い、混同が続く人物も珍しい。筆者の知る限り「スネル」の名前が日本の歴史資料・大日本維新史料稿本に初めて現れるのは、慶応1(1865)年6月17日付けの記述である。いわく、

神奈川奉行、書を外国奉行等に致し、瑞西(スイス)国書記官・スネルより交趾支那(コーチシナ、=ベトナム南部、メコン川下流地方)サイゴン府の米百五十萬担を本邦へ輸入せんことを勧誘せる旨を報じ、その指揮を請う。

と云うものだ。更に同、慶応3(1867)年7月16日付けの記述いわく、

十五日、孛国(=孛漏生:プロシャ)公使館書記官「ヘンリー・スネル」、馬車に乗じ芝・田町を過ぐ。沼田藩士・三橋昌、之を襲い将に危害を加えんとす。「エドワード・スネル」、「ヘンリー・スネル」の弟、拳銃を以て之を狙撃し、誤りて商家・下駄商幸次郎の雇人浅次郎を傷つく。明日「スネル」兄弟、外国奉行・石野則常筑前守等に会し、その顛末を告げ、速やかに兇徒を逮捕せんことを求む。

と、馬車に乗ったスネル兄弟が江戸の芝・田町で暴漢に襲われたが、弟・エドワード・スネルの撃った拳銃の弾が、誤って近くの下駄商店の日本人を傷つけたと云うものだ(「大日本維新史料稿本・続通信全覧」)。

この二つの史実から明らかなように、ヘンリー・スネルとエドワード・スネルは兄弟であり、当時兄のジョーン・ヘンリー・スネル(ジョン・ヘンリー・スネルとも)はプロイセン公使館の書記官であり、弟のエドワード・スネルはスイス公使館の書記官だった。しかしここではまだ、2人の国籍についての記述はない。

後の戊辰戦争の新政府軍の新潟攻撃で、弟のエドワード・スネルは戦争に巻き込まれ多額の財産を失っている。明治5(1872)年になってエドワード・スネルが明治政府に賠償要求を出し4万ドルの償金を得ているが、その時の文書には 「和蘭人・スネル」と、オランダ人として出て来る(「日本外交文書デジタルアーカイブ・第5巻、第6巻」)。しかし本文でも触れる如く、兄のヘンリー・スネルが会津の移民を引き連れサンフランシスコに上陸した時点で、現地の新聞「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙は「プロイセン人」と報道している。即ち、兄は「プロイセン人」で、弟は「オランダ人」なのだ。弟のエドワード・スネルは、当時のオランダ公使まで巻き込んだ日本側の公式な賠償請求史料の如くオランダ人であったわけだが、特に国籍を偽る理由など無かったはずだから、兄と違う国籍にはそれ相応の理由が在ったはずだ。

更に見て行くと、日本とプロイセンの修好通商航海条約は、プロイセン使節・オイレンブルクと交渉中に突然割腹自殺をとげた外国奉行・故堀利煕(としひろ)に代わり、3ヶ月程前にアメリカから帰国したばかりの外国奉行・村垣範正や、同・竹本正雅、目付・黒川盛泰との間で万延元年12月14日(1861年1月24日)に調印され、ほぼ2年後にプロイセン領事・フォン・ブラントが来日した。それ以降、プロイセンは1866(慶応2)年のプロイセン王国とオーストリア帝国との戦争に勝利し、北ドイツ連邦の盟主になった。このため一時帰国したフォン・ブラントは代理公使に昇格して日本に帰任し、この経緯と新しい北ドイツ連邦の関係を説明する1867(慶応3)年4月22日付けの文書を幕府に提出している(「大日本維新史料稿本・続通信全覧」)。長々と背景を説明したこの4月22日付けの文書の原文はドイツ語だったはずだが、日本語に翻訳された文の末尾には「イ・ヘンイ・スネル訳」と出てくるから、当時プロイセン公使館書記官のジョーン・ヘンリー・スネルがドイツ語からオランダ語への翻訳を行い、オランダ語訳文と共にドイツ語原文を幕府に提出し、日本側でオランダ語訳から日本語へ訳されたと云うことだ。これは、横浜開港当時日本と諸外国間での公用語はオランダ語だったから、既に折に触れ記述している如くアメリカ公使館でもヒュースケンやポートマン等のオランダ系アメリカ人がオランダ語を使う書記官として活躍していたが、オランダ語をよく操ったスネル兄弟がドイツ語圏のプロイセンやスイスの公使館でオランダ語を使う書記官を務めたのは、自然な成り行きだったのだ。

更にまた、明治元(1868)年7月27日付けの、戊辰戦争で新潟港まで進攻した新政府軍の摂津丸(後の摂津艦)と丁卯(ていぼう)丸(後の第一丁卯艦)の2艦からの報告書にいわく、

当正月より会津にまいり居り候プロイセン人、当時平松武兵衛と申す者の弟・スネルと申す者、よほど賊のため外国の事周旋いたし候由。

と出て来る(「大日本維新史料稿本・新潟駐在官軍軍艦報告書」)。ここでの「プロイセン人」は、文脈からみて平松武兵衛を名乗る兄・ジョーン・ヘンリー・スネルの事であり、弟・スネルをプロイセン人とは言っていない。

この報告書が言う様に、兄・ジョーン・ヘンリー・スネルは明治元(1868)年1月から会津に来ていたのだ。江戸から会津に帰国した前藩主・松平容保は4月10日に新政府軍に対抗する 「会津・庄内同盟」を盟約していたから、その月末には旧幕府老中・小笠原長行や陸軍奉行・竹中重固等が会津にやって来、暫くして旧幕府老中・板倉勝静も参加した。そんな中でヘンリー・スネルは5月に松平容保に会い、軍事顧問として平松武兵衛という日本名を貰い、若松城下の西に屋敷を与えられたのだと聞く。

兄ヘンリー・スネルは、7月下旬に新政府軍が新潟に攻め込む数ヶ月前には会津から新潟近辺に出て来て、会津藩士・田中茂手木(もてぎ)の通訳で米沢藩などの軍事相談に乗ったり、7月中旬には奥羽越列藩同盟の重役と会議を持ち、同盟が新潟を開港して外国と取引するにはそれなりの専門家を駐在させねばならないと建策したり、サイゴン辺りから3千人程の傭兵を連れて来る等のアイデアを出したりしている(「大日本維新史料稿本」)。

当時弟のエドワード・スネルは、水運に便利な新潟の街中の東掘(片原堀)前通りの山木商店に拠点を構え、武器、弾薬や必需品を会庄同盟・奥羽越列藩同盟になる側の庄内藩を始め、長岡藩、会津藩、米沢藩等に供給していたし、兄のヘンリー・スネルについては、

スネルの兄は近頃会津藩に召抱えられたと云って、日本服を着用し、丸に葵の紋付羽織に袴を穿き大小を佩び、自ら平松武兵衛と改名したほどで・・・。

と出て来るように、上述の如く既に会津藩で平松武兵衛を名乗り、日本装束に脇差も差す事を許された程に、松平容保始めの会津藩重臣達の信頼を勝ち得ていたのだ。会津藩からいわゆる軍事顧問に招かれたわけだが、これには会津藩出身の藩士・田中茂手木が深く関わっていたようだ(「横尾東作翁伝」)。

これは、長岡藩家老・河井継之助が江戸呉服橋の藩邸引払いの際に、信頼する弟のエドワード・スネルに頼み、藩邸にあった主家の家宝や収集した書画・什器類を横浜在留外国人に売却し数万両を手に入れ、撤退時に最新式の大砲や小銃など武器類をスネルから購入し、スネル所有の汽船を借り上げて積み込み、藩邸倉庫の米穀をも積込み、桑名候(松平定敬)はじめ長岡・会津・桑名の藩兵300人余りを乗せ、江戸から横浜・箱館経由新潟に向かっている(「河井継之助傳」)。これほど弟・スネルを信頼していた関係だったから、会津藩はこの河井継之助を通じスネル兄弟を知り、武器購入も行った。新潟にはスネル兄弟が滞在した時期があったが、弟のエドワード・スネルと組んでいて既によく顔見知りの会津藩士・田中茂手木の仲介もあったのかも知れないが、上述の如く1月に兄のヘンリー・スネルは新潟から会津に来ていて、会津に逃れて来た旧幕府方の閣老・板倉伊賀守や小笠原壱岐守も出席する場で洋式の軍備や戦略を建策した(「大日本維新史料稿本・史談会速記録第91輯」)。これは、弟のエドワード・スネルが武器を供給し、兄のヘンリー・スネルが軍事顧問になるという構図だが、スネル兄弟と会庄同盟・奥羽越列藩同盟側の強い結びつきであった。

以上、こんな背景から推定すれば、スネル兄弟は恐らくプロイセン西部とオランダ東部の低地ドイツ語やオランダ語も話される地方に生まれ、かなりの教育を受けた人物であり、兄のヘンリー・スネルは「将軍」とも呼ばれたそうだからそれなりの軍歴もあったようだ。プロイセンの低地ドイツ語は、オランダ語と共に西ゲルマン語群に属す非常に近い言語と聞くから、両言語での教育を受けたのかも知れないが、いずれにしても、2人はドイツ語とオランダ語の出来る書記官として日本で仕事を始めたわけだ。

従って、兄・ジョーン・ヘンリー・スネルがサンフランシスコ上陸時に現地新聞に「プロイセン人」と名乗ったのは、本来の国籍を伝えた筈で、日本の当時の記述とも矛盾しない。そこで筆者の推定だが、弟・エドワード・スネルのオランダ国籍は、何時の時点にかエドワード・スネル自身がオランダに帰化していたか、あるいはまた、スネル兄弟のプロイセン国籍だった両親が、兄・ヘンリーの誕生後、弟・エドワードの生まれる前にオランダに帰化、あるいはオランダに永住・勤務したためかも知れない。即ち、兄・ヘンリーはプロイセンで生まれ、弟・エドワードはオランダ或いはオランダ領で生まれた可能性である。

しかし、この章で中心になる平松武兵衛ことジョーン・ヘンリー・スネルが会津でどの様に暮らしたか、筆者にとって残念ながら未だ歴史の藪の中にあり、「戊辰戦争」、「武器売買」、「横浜と新潟」、「松平容保」、「会津藩家老・梶原兵馬」、「長岡藩家老・河井継之助」といったキー・ワードはあってもよく分からない。横浜でフランス語を学び、幕府の外国奉行・小出大和守(秀実)に随行してロシアやフランスに行き、上述の如く新潟では弟のエドワード・スネルの通訳をし、戊辰・新潟戦争で若くして戦死したという会津藩士・田中茂手木が生きていて回想録でも書いていれば、ヘンリー・スネルの素顔がもっと後世に伝わったはずであろうが、歴史上の「若し」は在り得ない。

また、兄・ジョーン・ヘンリー・スネルが会津藩の人達を引き連れて渡米し、カリフォルニア州に入植地・若松コロニーを創ったが、当時の現地新聞報道を中心にその経緯を記述した、「若松コロニー」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) も参照して下さい。
(「大日本維新史料稿本」:東京大学史料編纂所・維新史料綱要データベース)

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05/01/2018, (Original since 08/10/2013)