日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

若松コロニー


1869年5月27日付け 「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙の1面上部、
この第1面の左下方に、日本人家族到着の記事がある。

Image credit: © Courtesy of CDNC,
hosted in the University of California Riverside.

明確な意思を持ってアメリカ本土に移民した第1号は、1869(明治2)年5月27日付けの現地新聞 「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙に日本人家族がサンフランシスコに着いたと報じられた、会津からジョーン・ヘンリー・スネル(ジョン・ヘンリー・シュネルとも)に連れられ、カリフォルニア州ゴールド・ヒルに入植した 「若松コロニー」の人達である。

この若松コロニーを造った人達の出身地の会津藩は、戊辰戦争で最後まで新政府軍に抵抗した会庄同盟・奥羽越列藩同盟の中心だが、明治1(1868)年9月22日、前会津藩主・松平容保(かたもり)と松平喜徳(のぶのり)父子が新政府軍に降伏し、庄内藩も降伏し、東北戦争は終結した。そして同年12月7日、松平容保が鳥取藩に、松平喜徳は久留米藩に永預けに処され、4千3百人以上もの主要な旧会津藩士が松代藩や高田藩に預けられた。従って旧会津藩内に残された一族郎党はたちまちその生活の困難に直面し、そんな状況の中、戦争中は会津藩の軍事顧問という立場にあった平松武兵衛ことジョーン・ヘンリー・スネル筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) が、アメリカで新天地を開き、若松コロニーを造る中心になったのだ。この計画がどの様なものであったのか、当時サンフランシスコで発行されたこの5月27日付けの「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙の記事を見てみよう。新聞記事いわく、

プロイセン人で日本の北部連合地域に過去10年に渡り住んでいたスネル氏が、日本人の3家族を伴ってサンフランシスコ港に到着した。これら家族は、この港に向かっている日本人40家族の先発隊で、更に80家族が続き、合計120家族、あるいは、約400人に上る人達が永住の為ここにやって来る予定だ。その殆んどが養蚕と絹糸生産者で、幾人かの茶の生産者も居る。彼らは3年生の「トウグワ」の若木を5万本持って来る。この種類は桑の中でも最も柔らかな葉をつけ、日本で最高級の絹が作られる。多くの幾種類もの竹も持って来るが、あらゆる用途に使う為だ。この竹は12フィートにも生長する。そして4フィートある3年生の500本の木蝋も持ち込む。更に6百万粒のお茶の実も持って来る。お茶の木の種(たね)は、小さな硬い木の実である。

スネル氏はプロイセン公使館の翻訳書記官だったが、その後の帝との戦争では、北部連合の財務閣僚だった。彼は日本語に熟達し、伊豆守に仕え、その重要な指揮官だった。北部の敗戦により、彼は何処かで平和な安住の地を探さざるを得なくなった。今後、藩の3人の高貴な人物 (筆者注:松平容保、正室・敏姫、養子・喜徳か)も参加し、運命を共にしないとも限らない。スネル氏には120人の家来とその家族が居た。彼らは生活の糧を求めて彼を頼り、彼は我国の法律とその運用に従って彼らの面倒を見、支援し、指導する任に就いたのだ。彼らは農奴ではなく、自由人だ。若し藩の高貴な人物がやって来れば、手に職を持つ更に多くの家族を連れて来るだろう。彼らは非常に高尚な家柄で、充分に教育を受け、洗練された人達だ。彼らは我が法律とその運用をよく理解し、遵守するだろう。

日本人は威厳により自己を律し、侮辱や欺瞞には直ちに反撃する事を知っているべきである。彼らに対しては、中国人によくする様な扱いは出来ない。彼らは家族を伴い、我々の資源を活用する技能と産業とを持って来るのだ。スネル氏は、平地にある土地は適さないから、安価な丘陵地帯や山地にある政府の土地を購入するつもりである。こんな砂利の多いローム層の方が蚕の健全な育成と高品位の絹糸には最適で、特に「良茶には丘を、粗茶には平地を」が金言である。彼は、桑畑を始めるには手数の掛からない(アメリカの)種苗園に溢れている普通の桑の事を知っていたが、わざわざ自分達の意に適う桑の木を持って来たのだ。この桑の木は現在3年生だが、彼は、これから満1年経ってからでないと蚕に食べさせる積もりは無い。彼等日本人は、蚕の卵や繭を我々がやるように、良く根も張っていない種苗園にあるような木から摘んできた桑の葉の上で育てるようなやり方は採らない。日本の桑畑の木は、3フィートの高さが標準の背丈である。桑の木の枝は地面に付かない様に伸ばし、木の根元をむき出しにはしない。こうする事で、樹皮を日焼けから保護するのだ。彼らの桑の葉の与え方は、葉だけを摘むのではなく枝ごと切取って与えるが、こうする事で蚕は常に新鮮な食べ口を確保出来るのだ。我々も同様にやってみると、その通りである。スネル氏は今年、若し商品化できそうな繭を探し出せれば、我がカリフォルニア産の繭から糸紡ぎをするだろう。しかしニューマン氏 (筆者注:ジョセフ・ニューマン:カリフォルニア州サンホゼの絹糸生産のパイオニア)の展示会での様に、まず無理であろう。そんな物は安物にしかならない。

この報道記事は、ヘンリー・スネルに率いられカリフォルニア州に入植しようとやって来た、会津藩の人達の入植計画を余す所なく伝えている。サンフランシスコ上陸時にヘンリー・スネルが記者のインタビューに答え、詳細を伝えたのだろう。

更にこの記事を注意深く読めば、「彼らは農奴ではなく、自由人だ」、「洗練された人達だ。彼らは我が法律とその運用をよく理解し、遵守するだろう」、「彼らに対しては、中国人によくする様な扱いは出来ない」などと、日本という異文化の国からの多くの移民に、この記者自身がある種の不安を抱くが、すぐそれを打ち消そうとするかのような文章も見える。こんな本能的ともいえる不安感や不信感は、既に10万人以上も入り込んでいる中国人移民に多くの職業や収入を奪われているという恐れと共に、この章 「アメリカ本土への移民」の後半に述べる日本人も含めた東洋人排斥に繋がる流れのようにも感ずる。しかしこの会津からやって来た日本人達は、家族を連れ、現地に投資し、自営によって永住するつもりだったから、既にカリフォルニア州で嫌われていた多くの出稼ぎ中国人とは違った目で見られた事も事実だったろう。

♦ 「ゴールド・ヒル」への入植


ゴールド・ヒル (サンフランシスコから北東へ約 170km)
Image credit: 筆者作成 (元地図:Courtesy of Google)

新事業に果敢に投資するのは、アメリカ人の特質の一つだ。1869年当時のカリフォルニア州には、ヨーロッパでも盛んに行われている、蚕を飼い絹糸を紡ぐ事業を始めた人達も出始めていて、注目すべき新産業と新聞ニュースになっている。例えば、上述の最初の記事に登場したサンホゼのジョセフ・ニューマン、また、サクラメントのウィリアム・ヘイニー、ロスアンゼルスのゲイリー等の名前と共に、日本からやって来て農場を探しているというヘンリー・スネルの名前が6月7日付けの「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙に出て来る。

更に同紙の6月16日付けの紙面には、いよいよヘンリー・スネル一行が「グレイナー農場」を購入し、茶と桑を植え新天地開拓に乗り出した様子が伝えられている。新聞記事いわく、

グレイナー農場は最近日本人居留地としてスネル氏により購入され、今は会津農場になったが、プラサービルの町から4.5マイル離れた、ジョージタウン駅馬車道 (筆者注:現在のSR・49号線道路、プラサービルの町を出る辺りをこう呼んだ)沿いにある。土地は上質の絹と茶に最適で、彼らはその栽培のためにやって来たのだ。そこは柵に囲まれた600エーカーの土地で、7年生の大きな果樹類があり、灌漑のいらない実をつけるまでに育った5万本(あるいは3万本?)の葡萄の木や、上質作物が出来る広大な穀物畑、整った家具付きレンガ造りの家、納屋、設備の整ったワイン貯蔵棟、耕作用具一式、馬、馬車、牛、豚、鶏等々、総額5千ドル!である。水も良く灌漑には十分である。

スネル氏の目的は、「若松」と呼ばれる村造りである。各家族は小屋を持ち、野菜など作れる庭を持つ事になろう。(この後3行余り読み取り不可能。)桑の木や茶の木は摘み取りが出来るように成熟したら、各家族毎に割り当てられる。各家族は夫々の蚕に桑を与え、自分の繭を紡ぎ、その品質と数量により支払いを受ける。出来た絹糸は、輸出や国内生産者向けに出荷される。お茶も原則的に同様である。家族毎に耕作し、葉を摘み、製茶所に出荷し、収入を得るのだ。こうする事で、製茶所は市場に均一な品質を供給出来る。ワイン造りも、実行可能な限り、同じように慎重な作業者の区分けで行われよう。現在の所、この州で入手出来ないお茶の木や竹、木蝋等々の日本産の木々は、手広く育成と販売を手掛けられる養樹園も作られる。・・・

この記事は更に長く続くが、全文は、「若松コロニーの新聞記事」を参照。

♦ 順調な若松コロニーの発足とその明るい見通し

これから約3週間ほど経った7月3日付けの「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙に、日本人居留地の活動は非常に順調に進んでいるという報道がある。その記事は、スネル氏始め日本人達は意気軒昂である。はるばる海を越え日本から持ってきて数週間前に植えた3年生の桑の木は、驚くべき成長を始めた。種として撒いた多くの茶の実は芽を出し、伸び始めた。これは新しく重要な産業の始まりである。茶の栽培には、この丘陵地帯の地味は日本と比べても非常に良好な適応性がある。来年には4年生になる桑の葉の摘み取りが出来るだろう。この新しい産業は、我々が考えていた以上に重要なものになるだろう、と云うものだ。

この様に順調に出発した若松コロニーの進行状況が、7月30日付けの同紙に、スネル氏が新聞社に来て言うには、という記事になっている。コロニーの全員が熱病に罹かったが、今はほぼ全快した。これは新風土に適応する途中で、その風土特有の、抗体のない人が発症する熱病だという。また穀物の刈入れに、今まで使った事もない農機具に慣れる事に戸惑ったり、使い慣れた鎌に持ち替えたりもした。撒いた茶の種が発芽し伸びる速さは抜群に速く、早くも成功が見えてきた。これから見ると、日本人は桑も植えつけたが、カリフォルニアでも経験があり困難も経験している、桑を育て養蚕を事業にするより、茶の栽培の方がはるかに安定性が在りそうだ。農園には葡萄の木もあるが、日本人はワイン造りを一から学び経験しなければならない。米作りは来年から行うが、現地の小麦粉からパンの焼き方を覚え、食べ始めている。故郷にはこの自由の国のことを伝え、「下におろう!」という権威者も居ないから、友人達には移住を勧めている、と伝えている。

この頃から翌年の夏、即ち1870年9月頃までにかけ、スネルの活動は活発だった。時折の新聞ニュースに、スネルが1年から3年生の茶の苗木を1本当たり50セントで販売する新聞広告を出したり、見本として製茶したと思われる緑茶を州都・サクラメントなどに持って行きふるまったり、茶の木やゴマをサクラメントの州博覧会に出品したり、桑の木や茶の木をサンフランシスコの農業・園芸・果樹栽培展示会に出品したりと、農園が順調に発展していることを思わせる活動をしている。

しかし中には、1869年9月18日付けの「サクラメント・デイリー・ユニオン」紙のように、日本人コロニーが順調だという情報を一部スネル氏から、またその関係者からよく聞くが、実際のところ現在農場には日本人男性4人と女性4人の8人が居るだけで、最初来ると聞いた140人はまだ着いていない。数百万粒の茶の実を持って来たと聞いたが、130本余りの芽を出した木が在るだけだ。数百本持って来た桑の苗木はよく育った木が2本あるだけで、乾燥期の夏場を越せなかったのだ。こんな情報を流した記事もある。

♦ 土地の追加購入

驚くべき記事が、1869年8月15日付けの「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙の「論説」の中に載っている。いわく、

本紙はこれまでに、日本人コロニーのリーダーが、プラサービル近郊の開拓済みで付属設備付きの600エーカーの土地に支払った金額を報道している。同じパーティーが、オーバーン近郊に、柵や果樹等々、家具や26床のベッド付きの街道に面した旅館、家畜小屋や馬小屋、付属小屋、溶解設備を備え馬車造りの出来る鍛冶屋、馬、牛、鶏、豚、その他多くの各種付属品類なども含めた、別の大きな、給水の良い農場を1800ドルで購入した。彼らの最初の農場の様に、カリフォルニア中でも、茶や桑の栽培に最も適した土地である。スネル氏は日本に帰り、居住地に多数の追加人員と植木類を持ち帰る。アメリカの桑から苗木を採ると蚕に与えるには適さないので、日本人の養蚕家は、日本で栽培されている種類の桑から苗木を採る事が必要だと考えている。アメリカの木に接木する必要性も予想している。日本の茶の実の発芽は非常に良く、この利益ある産業に参入しようと思う人達に分けるため、大規模に茶の木を植えようと考えている。12月から1月までには多くの3年物の茶の木が育つはずなので、長くとも2年以内には製茶を始められると期待している。

このオーバーンの町は、ゴールド・ヒルから北西に22km程離れた、カリフォルニア州都・サクラメントからネバダ州・リノの街に通ずる現在の国道80号沿いにある。ここで、記事にある 「街道に面した旅館」の「街道」は必ずしもこの国道を意味しないが、この記事は非常に具体的で、また今まで何度も若松コロニーの記事を載せたサンフランシスコの大手新聞だから、ここで筆者はこの記事は正確だと信じる。即ち、スネル一行がサンフランシスコに着いて3ヶ月程経った頃の記事だが、「スネル氏は日本に帰り、居住地に多数の追加人員と植木類を持ち帰る」と報道された様に、この時点では到着するはずの後続部隊が到着していないようだ。追加の土地を買い、後続部隊の受け入れ準備は整ったが、後続の人も資金も来ないのだ。近々肝心の資金手当てをしに、再度日本に帰る積もりだったのだろう。

ヘンリー・スネルと会津の一行が当初どの位の資金を持って渡米し、前藩主・松平容保とどの様な約束があったのか筆者には全く分からないが、初めの5千ドルの投資金の回収が始まらない内に、また1800ドルもの大金を投資したと言う。スネルには余程の自信があったのだろうか。初期投資の回収に目途が付いてから次に拡大するのがベンチャー事業の鉄則だが、危険極まりない拡張主義だ。結果から見ると、次に書く主要原因に次いで、これが失敗のもう一つの原因であった事は明白だ。但しここで、最初の5千ドルやこの1800ドルの支払い条件を知らない筆者は、土地と引き換えに一括支払いを想像するのだが、何らかの条件設定で分割支払いだったのなら、その財政状況は明らかにもっと深刻かつ危険である。

一方スネルの立場を考慮すれば、スネルが日本を離れる時は第1陣に次いで40家族も渡米する事になっていたから、その準備のための追加購入だとも見る事が出来る。その時は、更なる資金が届く筈だったのだろう。また、この第二次購入の土地の広さは記事に含まれていなが、筆者は勝手に乱暴な推定をして見る。最初の土地は建物や果樹類、農機具や家畜込みで1エーカー当たり8ドル33セントだが、主要道路(現在のSR・49号)から少し離れている。第二次購入の土地はオーバーン近郊で、何らかの街道に面していて便利が良いから、同様な付属物込みで3割から3割5分高いと見て、1エーカー当たり11ドル25セントと見よう。この推定では即ち、第二次購入の土地の広さは 160エーカー程になる。

♦ 気になる日本の政情変化の報道

誠に気になる日本の政情変化と新政府軍に敵対した会津藩への処分が、アメリカの新聞に載った。1869年10月22日付けの「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙の報道だった。これは当時横浜で発行されていた英字新聞 「ジャパン・ガゼット」紙の記事を見て、心配しながらの報道記事だが、いわく、

ジャパン・ガゼット紙はスネルのコロニーが成功するかどうかに疑いが在ると言う。移民団を準備した会津藩主は、移民団が計画された当時、戦争の不運な成り行きで瀬戸際にまで追い詰められていたが、それ以来待遇が変わり、殆んどの藩士は元の家に住めるよう和解に至った。このガゼット紙の編集者は9月半ばに記事にしたが、藩士達全員が元居た場所に住めると考えている。しかしながらその時点でスネル氏は日本に着いては居ず、彼が(会津に)到着して進捗状況を説明することにより、新たな数百人の日本人が、既にアメリカに来て更に幾つかの新しい農園を手掛けている先発日本人に続く事を願うばかりである。

この様に報道し、日本の政情変化が、若松コロニーの発展の足かせになるのでは、と心配したのだ。

実際には上述の如く、明治1(1869)年12月に前藩主の松平容保は鳥取藩に永預け、即ち禁錮刑になっていたし、明治2(1869)年11月、旧会津藩士の殆んどが松平容保の子・容大(かたはる)に許されて新しく創られた斗南(となみ)藩・三万石に移封されたが、それまでは松代藩や高田藩に預けられていた多くの主要な藩士の謹慎処分が解けていなかったのだ。こんな状況下では当然、その後の後続部隊の派遣やコロニー継続資金の援助に重大な齟齬をきたしただろう事は明らかだ。

しかしそれから2日後の10月24日付け同紙に、先般到着した蒸気船で、スネル氏がもう直ぐ到着するだろうと期待していた残りの男女子供合わせて13人が到着し、スネルが迎えに来るのを船上で待っていると云う報道がある。これで合計22人が若松コロニーの住人になったようだ。しかし、最初に述べた5月27日付けの新聞報道では、第一陣は合計40家族だとの情報だったから、今回4家族と考えても、スネル家族も含め合計で8家族にしかならない。こんな所に、前会津藩主・松平容保の禁錮をはじめ、4千3百人以上もの主要藩士の禁固、それに続く会津藩全体が移封になるという処分の影響が出て、後続家族のアメリカ渡航と資金調達が途切れてしまったのだ。

♦ 若松コロニーの予期せぬ失敗

更に、ここで筆者が想像するに、この恐ろしい状況が1870年の夏の終わりに起こったようだ。翌年の1871年5月20日付け「パシフィック・ルーラル・プレス」の解説記事に次のようなショッキングな記述がある。これは農業関係の記事を多く載せる、専門新聞である。

「灌漑の事実について」と題する見出しの中で、サンディエゴ在住の記者からの通信によると南部地方の農業では灌漑が不可欠だが、作物の生育には水をいったん溜めて空気に曝した方が成績が良いと述べていると書き出して、更に続け、この灌漑に関する若松コロニーのスネルの状況を報じた。いわく、

エル・ドラド郡の茶の栽培実験で、スネル氏の経験に基づく事実が、この灌漑関連で興味深いだろう。
彼の木々が(夏の)日照りでしおれ始めるや、近くを流れる金鉱山の排水溝から、時折水を与え始めた。初めの内は、このしおれた木々は灌漑の効果で目に見える改善が明らかだった。しかし、暫くすると何かが異常だという兆候を示し始め、灌漑水量を増やすと、反って悪化していった。灌漑の水はどんどん自由に流れ、木々の幹にも直接触れていたようだ。よく観察すると、ちょうど下方の幹が地面から出て、長く水と接触し続けた辺りに、酸化鉄の薄い膜が出来、完全に幹を取り囲み、樹皮と芯の間を流れる樹液をほぼ完全に遮断してしまうほど樹皮を傷つけていた。こうして木は、排水溝の水に含まれた沈着物で絞め殺されてしまったのだ!。
この状況は、一般的に他の人達も、その原因や植物への害の性質を知らず、同様な問題で困った事があったかも知れず、我が丘陵地帯の農家や園芸家への注意のため、報告されるべきである。この酸化物は疑いもなく、流れの上流の鉱山操業から来る水に含まれた、硫化鉄から析出したものである。
対策は水を植物に接触させない事で、そうすると鉄分は地表に析出し害にならず、その方が良いだろう。いったん水を貯水池に溜めると、ずっと良くなるだろう。

この様に、若松コロニーの桑が順調に育ち、茶の実が順調に発芽し、苗木も育ち始めた茶の栽培で、灌漑用水の失敗で全滅してしまったのだ。ここで、会津地方とゴールド・ヒルのあるプラサービル地方の気象条件を調べて見ると、会津から8200km程離れていても緯度はほぼ同じく、平均気温もほぼ同じだが、その降雨量のパターンに大きな相違がある。会津地方は夏の6月、7月、8月の降雨量は毎月120mm〜160mmあるのに対し、プラサービル地方は月々10mmに満たない。従って灌漑は必須だが、灌漑に使った金鉱山から流れ出る排水の水質が全く合わなかったのだ。

♦ 若松コロニーの離散

 
ゴールド・ヒルの丘の上にある 「おけい」の墓 (左:英文面、右:日本文面)
おけいは、1871(明治4)年、ゴールド・ヒルで19才の生涯を閉じた。

Image credit: © 筆者撮影

また同様に、1871年8月6日付けの「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙にも、スネル氏は昨年、プラサービル近郊で大規模に茶の栽培を試みたが失敗に終わった。茶の実は好調に発芽し、日本から持ってきた苗木も始めは素晴らしい成長を見せた。しかし、最後には全滅してしまったのだ。原因は、土壌ではなく他の理由によるもので、それは灌漑用水に含まれた鉄分と硫黄分である。費用のかかる遠方の別水系から取水したが、救済には遅過ぎたのだ。更に続けていわく、

1ヶ月4ドルの収入では日本人は困窮し始め、近隣の労働者は日本人に(農場から)逃げ出すように勧めた。農場継続のため普通の労賃で労働者を雇えば、生産出荷額の倍にもなる。そして、これでこの大事業は終焉を迎え、尊敬すべき経営者には、財政の破綻と、献身的な妻や子供のため見知らぬ土地で乏しい生活を送らねばならない落胆のみが残された。

この記事が示唆するのは、それまで若松コロニーで頑張った日本人は、最初の入植からほぼ1年半にして離散の憂き目に遭った事になる。ここで若しスネルが、上述の1869年8月15日付けの「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙に報道された1800ドルの無駄な投資をしなければ、即ち無駄な現金を支払わなければ、この現金で更に頑張れたはずだ。筆者がそう考える理由は、1870年の米国の国勢調査とその分析資料で、手工業者の平均年間収入は186ドルだった(NBERデータ)。若松コロニーがより切り詰めて、一家族が年間150ドルで生活した場合、8家族合計1200ドル必要になる。従って筆者は、若し第3陣の到着があって数家族の追加になっていたとしても、この1800ドルで彼らはまだ1年以上は持ち堪えることが出来、その間に茶の栽培や養蚕で復活する可能性は有ったと考える。但し上にも述べた様に、スネルが若し土地の支払いを分割払いにして、最初の土地や2番目の土地の負債が残っていたとしたら、当然この限りではない。いずれにしても、結果は1年半で若松コロニー離散の憂き目に遭ったのだから、余分な現金など無かったわけだ。

今ゴールド・ヒルに行ってみれば、若松コロニーの在った辺りに 「ゴールド・トレイル・スクール」と呼ぶ小・中学校がある。その学校の敷地の直ぐ東側で、コールド・スプリングス道路から学校の敷地に沿って150mほど北に向かい斜面を登った小高い場所の樫の木の傍らに、「おけい之墓」と刻まれた、19才の若さで他界した日本人少女の墓石がある。この辺りは、ゴールド・トレイル・ユニオン・スクール・ディストリクトのウェブ・サイト上で、

ゴールド・トレイル・スクールは、現在の敷地に1957年に設立された。この場所は以前、我が郡に最初に入植した日本人移民により、1869年にゴールド・ヒルに造られた、ベンチャー事業の若松茶絹コロニーの在った場所である。コロニーは2年にも満たず失敗に終わり、土地は最終的にフランシス・ビーアカンプにより購入された。これら日本人に対する州の記念碑が、学校敷地内にある。

と説明される如く、若松コロニーが在った場所である。

スネルに伴われ会津から遥々やって来た日本人は散りじりになり、隣のビーアカンプ農場で働き始めたまだ若い「おけい」は19才で他界した。今でもビーアカンプ農場の片隅にあるおけいの墓石が、当時の歴史を伝えている。最近の情報によると、2010年11月、エル・ドラド郡の自然環境保護団体「American River Conservancy(アメリカ川自然環境保護協会)」がビーアカンプ農場からこの辺りの 272エーカーを買い取り、今後長くこの歴史ある場所を保護・維持する予定と聞く。素晴らしい出来事である。
NBERデータ:「Wages and Earnings in the United States, 1860-1890」、NBER:The National Bureau of Economic Research)
(American River Conservancy: http://www.arconservancy.org/

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06/15/2019, (Original since 08/10/2013)