日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

新スペインの使節、セバスチャン・ビスカイノ
     (情報追加、書き直し)

セバスチャン・ビスカイノ(Sebastian Vizcaino)はスペインで生まれ、一時期フィリピンに在留し、新スペイン即ち現在のメキシコから北米大陸の西海岸測量を2回行い、また使節として日本にも来て徳川家康や徳川秀忠と面会し、伊達政宗とも非常に親しく、日本とつながりの深い人物である。

 ビスカイノとカリフォルニア沿岸探検と測量

ビスカイノが使節に任じられ日本に来るおよそ15年も前の話である。ビスカイノは1596(文禄5)年、新スペインの太平洋沿岸南部からカリフォルニア湾にかけて測量し、湾内に150km程入ったバハ・カリフォルニア半島のラ・パスに入植地を造った。しかし、インディアンの攻撃や物資不足からこの入植地は不成功に終わった。これに引き続き1602(慶長7)年5月5日、サン・ディエゴ号(San Diego)、サント・トーマス号(Santo Tomas)、新造小型伴走船のトレス・レイェス号(Tres Reyes)の3艘の船団を組んで、アカプルコで2年も準備した北部カリフォルニア沿岸の探検測量・調査に出発した。この再度の測量は元々ビスカイノの提案であったが、これを基にした1599(慶長4)年9月27日付けで詳細指示を添付した命令がスペイン王・フェリペ3世から新スペインのモンテレイ総督に出されたものだ。その目的は、アカプルコから太平洋岸を北上し、バハ・カリフォルニア半島の太平洋沿岸を更に北上し、主要な入り江や岬、陸地の目標を測量し、航海方法を記述し、木材や水、バラスト石のある場所を特定し、風向を計測し、太陽高度を測定し緯度を計り、主要な場所に地名を付け、カリフォルニア沿岸の航海地図を作成することであった。これは、1565(永禄8)年から始まり、当時重要だったルソン島(現フィリピン)・マニラから新スペイン・アカプルコへのガレオン船の航路情報としても、北部への更なる領土拡張としても必要なものだった。

特に昔、ビスカイノ自身が貨物満載で大砲も積まない600トンのガレオン貿易船・サンタ・アナ号(Santa Ana)に乗りフィリピンから新スペインに帰る途中、1587年11月、水汲み場のあるバハ・カリフォルニア半島南端で、待ち伏せするトーマス・キャベンディッシュ(Thomas Cavendish)の2艘のイギリス私掠船に襲われた。これはしかし、ガレオン船側から見ればイギリスの海賊船であったが、積んでいた大量の金をはじめ絹、繻子(しゅす)、紋緞子(もんどんす)、香料などの貴重な積荷を強奪され、挙句に船に火を付けらる事件があった。しかしビスカイノの努力でやっと消火に成功し、アカプルコに帰港できたが、こんな緊急時には、避難港も熟知している必要があった(The Manila Galleon by William Lytle Schurz., E.P. Dutton & Company, New York, 1939)。フィリピンは今日でも主要な金産出国であるが、1521(永正18)年のマゼラン率いるスペイン船団の進攻以来スペイン植民地が拡大し、ルソン島から金を産出したのである。当時スペインと戦争状態にあったオランダやイギリスの船が時としてスペイン入植地や船をを襲う事があったが、別項の三浦按針(ウィリアム・アダムス)筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) でも少し触れた様に、オランダを出港したウィリアム・アダムスの乗る5艘のオランダ船団も、南米のポルトガル領やスペイン領を襲った後に太平洋を渡る計画があったほどである。

1602(慶長7)年の2回目の測量調査では、アカプルコから北上するにしたがって、エンセナダを命名し、サン・ディエゴを命名し、サンタ・バーバラを命名し、モントレーを命名した。これらの地は現在でも良く知られた、メキシコやアメリカ合衆国カリフォルニア州の湾や港町の名前になっている。更に北進し、サンフランシスコの北330kmほどにある、メンドシノ岬辺りまで到達した。更に200qほど北上し、現在のアメリカ合衆国オレゴン州南端の、北緯42度19分にあり、ビスカイノが発見した聖人の日にちなんで「サン・セバスチャン岬(Cape San Sebastian)」と名付け、現在もそう呼ばれる岬まで確認して引き返した。ビスカイノはモントレーやサン・ディエゴを入植地として強く推奨したが、当時最も重要だった太平洋を渡りルソン島マニラからアカプルコに向かうガレオン船航路沿いにあっても、アカプルコから3300kmとあまりにも北にあり、入植に多大な費用がかかりすぎるためか、その後長くスペインから忘れられた存在だった。もっとも1609年頃には、モントレーがガレオン船寄港地として入植地建設の第1候補だったが、対費用効果の観点から、下に書く「金銀島」探検が優先されたようだ。その後1769年、やっとサン・ディエゴに新スペインの砦と伝道所ができ、1771年、モントレーにも砦と伝道所ができ、その後マニラからのガレオン船も帰港したようだが、ビスカイノの探検から167年も後のことである。

 ビスカイノの日本沿岸測量と、「金銀島」探検

本文に記述したごとく、1609(慶長14)年、ルソン島の前総督、ドン・ロドリゴがルソン島から新スペインに帰国する途中船が難破して日本で救助され、徳川家康から帰国資金と三浦按針ことウィリアム・アダムスの建造した120トンの外洋船・サン・ブエナ・ベンチュラ号(サン・ブエナ・ベントゥーラ号とも)の提供を受け、翌年無事新スペインに帰国できた。セバスチャン・ビスカイノは新スペイン総督サリナス候の命で、日本の救助活動への答礼使節としてロドリゴが提供を受けた帰国資金を返却するため、1611年3月22日アカプルコを出発し、6月11日浦賀に入港した。この船には、1610年に家康がドン・ロドリゴに随伴させ、新スペインに派遣した22人の日本人使者たちも乗り組み帰国できた。

アカプルコ行きガレオン船が航海したと思われる航路
(参照:The Manila Galleon by W. L. Schurz)
Image credit: 筆者製作

Basic global image credit: Courtesy of Google Earth

当時スペインが成功させていたルソン島から太平洋を渡り新スペインのアカプルコまでの定期航路は、日本近海で少なくとも北緯30度以北へ、出来たら40度辺りまでにも出来るだけ北上し、貿易風を受けて東進し、メンドシノ岬あたりで北米大陸を認めるや、一気に東南に進路を取り北米大陸沿いにアカプルコへ向かうものだった。これはまた、とりもなおさずルソン島からアカプルコへの航海で、太平洋を渡る大圏航路に近いものだが、ドン・ロドリゴの日本沿岸での遭難に見るように、日本近海の測量は重要になっていた。しかしその当時スペイン国内ではフィリピンから日本向けの直接貿易船の出航が問題になっていたようだが、徳川家康の要請でフィリピン・マニラからは時々ガレオン船が浦賀に入港したから、そのための情報としても必要だったのである。

それまで敵対していたスペインとイギリスは、1604(慶長9)年8月18日のロンドン条約を締結し、イギリスは外洋上での海賊行為を放棄することに合意したから、太平洋を渡るスペインのガレオン船航路は、暴風雨などの自然災害による被害を避ける対策でより安泰になったのである。

ビスカイノは新スペイン総督から、ドン・ロドリゴ救助の答礼使節という目的のほかに、ルソン島から新スペインへ向かう航海ルートで重要地点にあたる日本沿岸の測量と、スペイン王から新スペイン総督に命じられた、噂になっている日本の東にあるという 「金銀島」の発見をも命じられていた。ここではしかし、スペイン王の命じた金銀島探検は、新スペイン内のモントレーでの入植地建設より優先度の高い大きな目的になっていたから、ビスカイノの答礼使節としての来日は、金銀島探検の手段とも言えるものだった。

家康や秀忠は、約束どおり援助資金を返却し、日本人一行を送り返したスペイン王や新スペイン総督の要求を入れ、1611(慶長16)年7月7日にビスカイノが日本沿岸測量とガレオン船新造の申請書を提出し、これに許可を与えた。これによってビスカイノは、浦賀から奥州まで沿岸を測量し、引き返し長崎までも測量した。このビスカイノの日本の太平洋沿岸や港の測量は、ビスカイノの 「今後暴風雨下の遭難に備え、日本沿岸状況を良く熟知していたい」という表向きの理由による要請を受けた、駿府に居る徳川家康の許可であった。これにより幕府は、この沿岸及び港湾の測量許可につき慶長16(1611)年9月15日、諸大名に通達を出した。いわく、

一、急度申し入れ候。仍て此の南蛮人、日本に於て諸浦巡検の由、上意の旨之を申すべく候。
一、南蛮人に対し、下々の狼藉之無きように仰せ付けらるべき事。
一、御領分へ罷り着き候わば、海陸何れにても、案内の者相添わされ、ツキツキ迄、御送り有るべき事。
一、黒船つなぎ申し候湊見申しに付きて、小船要り候由申し候わば、仰せ付けられ、御借り成さるべき事。
右何れも御油断無き事。最も令存(ぞんじせしめられ)候。恐々謹言。
    慶長16年9月15日     青山図書介
                   安藤対馬守
                   酒井雅楽頭
                   本多佐渡守
徳川家康は、しばらく後に駿府に来た三浦按針ことウィリアム・アダムスにこのスペインの日本沿岸測量をどう見るか、ヨーロッパではどうかを問い質した。当時ビスカイノは浦賀で沿岸測量の準備中であったが、この時アダムスは、オランダの平戸商館長・スペックスを伴い、駿府にいる家康に会い貿易許可証を申請に来た時である。アダムスいわく、ヨーロッパ諸国での考え方は、この種の沿岸測量は戦争行為の一種に当たる事を説明した。そして、スペインは日本に対しその様な隠された意図があるのかも知れないと述べ、スペインの宣教師はスパイであり、日本住民の宗教的な忠誠心を使い、秘かにスペイン軍の日本征服を容易にしたいとの画策があるかも知れない。この理由により、ドイツやイギリス、フランスの統治者は宣教師の入国を許さないと説明したと言う(The Log-book of William Adams, 1614-19. with the Journal of Edward Saris, and other documents relating to Japan, Cochin China, etc. Edited with Introduction and Notes by C. J. Purnell, M.A., P. 163)。

またこの時であったと思われるが、アダムスは、ビスカイノには金銀島探検の目的もあると家康に知らせている。そしてこのアダムスの述べたビスカイノの沿岸測量に対する意見と、ビスカイノの金銀島探検計画を家康へ通報したと言う情報は、ほぼ同時期にビスカイノ側にも知れていた。これはビスカイノの書いた 金銀等探検報告書 に、
また皇帝並びに皇太子は航海の主要目的が諸島の発見にあることを聞知せる由なり。此事は当国に在るイギリス人及びオランダ人が彼らに告げたるなり。又彼等は何故に其の国内の港湾及び沿岸の測量を司令官(筆者注:ビスカイノ自身)に許したるかと言ひ、イスパニヤ人は尚武の国民にして武技に熟したれば、大艦隊を率い来りて其国を奪はんとすることあるべし。己等の国に於ては此の如き許可を与えずと述べたり。皇帝は之に答へ若し之を許さずば他国をおそるゝものなるが故に卑怯なり。
と言ったと記述している(『ビスカイノ金銀島探検報告』、村上直次郎訳註、雄松堂)。当時徳川家康の近侍やその家来達の中にはカトリックに入信した者達も居て、時として日本語とポルトガル語やスペイン語の通訳には宣教師も入っていたから、こんな情報は容易に漏れたのであろう。

さてビスカイノが三陸沿岸を測量中の1611年12月2日(慶長16年10月28日)、ビスカイノ一行の測量隊は越喜来(おきらい)の村に着いた。現在の岩手県大船渡市三陸町越喜来である。この入り江、越喜来湾に近づくと、村人達がみな山に逃げて行くのを見た。ビスカイノ一行を恐れて逃げるのかと不審に思っていたとき、午後5時頃に突然4m.にも及ぶ津波が押し寄せた。三陸地震によるものだった。ビスカイノによれば三回も高波が来たという。この津波は三陸沿岸や北海道東岸にも来襲し、伊達藩内で溺死者1,783人、南部・津軽の海岸でも人馬の溺死は3千余り、北海道の南東岸ではアイヌの溺死者が多かったという。この様な広範囲の津波被害を考えれば、複数の地震が連動して起こった大地震であった可能性が考えられる。

またこの約2ヵ月ほど前の慶長16年8月21日(1611年9月27日)、会津に強い地震があり、若松城の石垣が崩落し天守閣が傾き、多くの神社仏閣にも被害が出て、死者数千人が出たという。この会津地震のほぼ1ヵ月後の9月28日、偶然ビスカイノが仙台に向かう途中会津に着き、藩主・蒲生秀行を訪問した。蒲生秀行からこの地震の話を聞き、タイミングが悪く充分な歓迎が出来ないと言われているが、この会津地震は三陸地震の前兆だったのかも知れない。

日本の太平洋岸の沿岸測量を終えたビスカイノは、徳川家康から新スペイン総督に宛てた朱印書を得た。いわく、

謝意を表するため、閣下、今一船を遣わせり。これ予が幸いとする所なり。自今両国間の親交貿易継続し、毎年商船往復すべし。予が領するこの国は、開国より神仏の守護する所なれば、特にこれを崇敬す。故に日本国民は上下の別なく、交際に於て、かって偽をいうことなし。これに加え秩序を喜び、商売に信義を重んず。貴国に於て尊崇する所の法は、日本の法と甚だ異なるが故に、当国に於いてはこれを尊崇せず。貴国より当国に来るべき商船に対しては、決して虐待を加えざるべし。閣下安意せられよ。蓋し数年前、国内の諸港一も残すことなく、これを厳命したればなり。
  慶長16年7月。
こんな徳川家康の新スペインと貿易を始めたいと言う朱印書を手に、ビスカイノはやがて、アカプルコへの帰りの航海の途中で宝島発見をしようと日本を出航した。ビスカイノはしかし、「金銀島」を発見できず、嵐で船は壊れ、仕方なく又やっと浦賀に帰り着いた。ビスカイノは船を造るために家康の援助を願おうとしたが、フランシスコ派宣教師・ペドロ・バウチスタの妨害に遭い、ついに願いが家康まで届かなかった。滞在費は底をつき、帰る船もないビスカイノに救いの手を差し伸べたのが、新スペインと通商を望んでいる伊達政宗だった。政宗は「伊達丸」即ち、ガレオン船・サン・ファン・バウティスタ号を建造し、支倉常長を新スペイン経由スペインに送り、スペイン国王フェリペ三世から通商の許可を得る目的だった。ビスカイノもまた一緒に、このサン・ファン・バウティスタ号でメキシコ、即ち新スペインに送られたのだ。しかし野心家で日本語のできるスペイン宣教師、ルイス・ソテロの影がちらつき、伊達政宗の命でソテロが長官兼船長に就任し、ビスカイノは一人の船客という待遇だった。

この日本のすぐ近くにあり金銀が大量に産出すると噂される宝島の発見は、スペインのみならずオランダも、1639年から数次に渡りバタビヤから探検隊を出している。特に幕府が嘉永6(1853)年にまとめた外交史料 『通航一覧・巻之二百五十一』にも、こんなオランダ船の1艘(筆者注:ブレスケンス号)が寛永20(1643)年に陸奥国南部浦に来て、船長始め10人が水を取りに上陸し盛岡藩に捕まったがオランダ人と分かり、出島の商館長、カピタン・エンサヽキ(筆者注:エルセラック・Jan van Elseracq / Elzerach)に引き渡された記録が載っている。それほどこの金銀島の発見は、当時熱く血を沸き立たせる探検だったようだ。

 ビスカイノが命名した、日本とカリフォルニアの「サン・ディエゴ」

宮城県石巻市雄勝町水浜、
日本の「サン・ディエゴ」
Image credit: 筆者製作

Image credit: Courtesy of YAHOO!
http://map.yahoo.co.jp/

前述のごとく、ビスカイノが日本に新スペインの使節として来る以前に、カリフォルニア沿岸をアカプルコから北に探検し、港や補給基地に最適な湾を発見し、「サン・ディエゴ」と命名した。この地は現在、アメリカ合衆国カリフォルニア州サン・ディエゴ市である。ここはしかし、ビスカイノの探検以前に、カブリヨ船長によって「サン・ミグエル」とすでに命名されていたので、後世の歴史家の中にはビスカイノの命名に異議を唱える人もいる。しかし、ビスカイノによって命名されたサン・ディエゴがその後ずっと使われている。

ビスカイノはまた日本で、徳川家康の許可を得て太平洋沿岸を測量し、測量結果を家康と秀忠に提出し、スペイン国王に提出するため4枚の図にまとめた。奥州沿岸の水浜(宮城県石巻市雄勝町水浜)の地は良港になるという報告を伊達政宗に提出し、「サン・ディエゴ」と命名した。この他にもこの近辺で良港になりそうな地を、石浜(宮城県牡鹿郡女川町石浜)をサン・アントン、浦宿(宮城県牡鹿郡女川町浦宿)をサント・トーマス、分浜(宮城県石巻市雄勝町分浜)をサント・ドミンゴ、雄勝(宮城県石巻市雄勝町雄勝)をレムスなどと命名し、夫々政宗に報告している。このようにしてビスカイノは、太平洋を挟んだ日本とアメリカの両岸に「サン・ディエゴ」の地名をつけた人物である。カリフォルニア州のサン・ディエゴは地名として現存するが、現在の日本にはもちろん、もうこのサン・ディエゴという地名はない。

元のページに戻る


コメントは 筆者 までお願いします。
(このサイトの記述及びイメージの全てに著作権が適用されます。)
04/01/2020, (Original since 02/24/2011)