日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

ペリー提督の出発遅れの原因

ペリー提督の日本に向けた遠征艦隊の本国出発がほぼ9ヵ月も遅れたが、その理由の一つ、蒸気軍艦の 技術的問題 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)  に関しては既に書いた。しかし、ペリー提督が使節に任命された後に、ペリー提督の出発遅れの原因にはもう一つの理由があったのだ。それは皮肉にも、カリフォルニアの金鉱発見により国庫が豊かになり、アメリカ経済が爆発的に発展したが、大幅な人手不足に陥ったためだった。カリフォルニア州では人口が急激に膨らみ、農業生産も急激に発展したが、それを支える必要物資は世界中から船で輸送された。細身の船体で高いマストに帆を多数張ったクリッパー型帆船は高速帆船だが、そんな高速帆船が大活躍した。実に、こんな民間船舶輸送を支える業界の船員の不足や船員給与の高騰があったのだ。それに従って、給与の安い海軍に入る水兵が減少した。いくらアメリカ海軍の軍艦は優秀であっても、それを運用できる水兵が不足しては軍艦は動かない。

このためペリー艦隊の出発が大幅に遅れたが、この問題に噛みつき、海軍省を痛烈に批判する論評が1852(嘉永5)年6月28日付けの「ニューヨーク・ヘラルド紙」の朝刊、第2面に掲載された。この新聞は当時、ニューヨークの日刊紙で、アメリカ国内屈指の発行規模を誇る大新聞であるが、ペリー提督の出発遅れの原因を追及するその論調は過激である。

 「ニューヨーク・ヘラルド紙」の評論記事

ニューヨーク・ヘラルド紙に掲載された厳しい評論記事いわく、

日本遠征、
それは放棄されたのか?あらゆる威嚇の声や自慢話と、蒸気軍艦で合衆国から日本列島に向かうペリー提督の使節団により達成されるであろう素晴らしい結果に対する民衆の期待が膨らんだ後で、そんな遠征話は頭に一撃を喰らい、少なくとも今の所ほとんど放棄状態である。従ってもうしばらくの間は、江戸を守る城壁はアメリカ軍艦の大砲から発射される炸裂弾の威力を無視し続けるだろうし、異教徒たちは我が救いの宗教の徳により啓発されることもなく、そして彼の地の不親切な海岸に漂着する不幸なアメリカ人水夫たちは、更に長く残酷な現地人の残虐行為に身を任せねばならない。ペリー提督はハドソン川沿いの田舎の屋敷(筆者注:ニューヨークの中心部から北に約45km、ハドソン川東岸沿い)に帰るかも知れず、日本に向かうはずの軍艦は我が軍港で非就航係留になるかも知れない。この明らかな遠征の放棄はこの地に大きな驚きを生み、特にヨーロッパではもっと大きい。そして、アメリカ政府は何故そんな利益ある結果が期待される計画を放棄するのだと言う疑問が、その双方から出される。疑いもなく、その理由は旧世界に属する全ての専制国家に驚愕を与えるだろうし、納得させるに足る我が法令集の寛大さと商業繁栄とにたいする最も納得できる証明を提供するだろう。その理由はごく単純で、この広大な共和国の中で、軍艦運用に必要な充分な人員を兵籍に入れられないという事実である。合衆国海軍の水兵の給与は1ヵ月12ドルに制限されていて、これは他国の艦船では非常に良い報酬とされているものだが、ここでは陸上や海上を問わず、どんな資格の雇用も容易に見つけられ、非常に高給で、政府の提供する給与は海上貿易では月に20から30ドルを思うままにできる有能な船員たちに軽蔑されている。カリフォルニアの金の発見や、あたかも魔法のように拡大した大西洋岸と太平洋岸の間の莫大な貿易が、我が最良の船員たちを引き抜いてしまった。そのため議会で承認された給与では、ロープが引け、帆綱を懸けられ、交代勤務が出来るような船員を軍艦に乗組ませられなくなった。この商業繁栄の状況は、消え行く様なものでは無い。一方で、この大陸の大西洋側と太平洋側の港間の貿易は驚くような比率で拡大していて、最近のオーストラリアの金鉱発見により今や更に新しい貿易も始まり、疑いもなくそれは同等の活動量と重要さを持つであろう。この様に商業が繁栄する状況はこれまでに例が無く、その効果は、ここだけでなく旧世界でも発展し始めていると感じる。ロンドンとポート・フィリップ(筆者注:オーストラリアのメルボルン)間で貿易に従事するおびただしい数の商船を見るが、それらはこの両港間を往復する蒸気商船の通常航路の形成によるものである。そしてごく最近のイギリスからの到着情報によれば、グレート・ブリテン号と呼ぶ素晴らしいスクリュー蒸気船が、その所有主により同じ航路に投入されたという事である。

しかし、我が国の商業が大繁栄し、商人たちはその雇用船員に対し我が政府より遥かに高額な給与水準を維持できる様になったわけだが、当然の疑問は、何故我が政府や海軍省は時代の進化に合わせられないのか、と言う事である。人類が推し進めようと思い、表面に出なくとも国家の精神に調和する偉大な国家的計画が必然的に放棄に迫られている事と、船員の給与を月額12ドルから16ドルあるいは20ドルに引き上げる事との違いに、何故政府や海軍省は無関心なのか。海軍工廠から毎日脱走兵がある事を目撃し、また軍務についていた乗組員を収容するのに、逃げ出す最初の好機を誰が監視するのか?我が海軍当局の一部のこの鈍さについては、どんな言い訳もできない。海軍省は議会に法案を提出し、船員の給与を増加し、月額16ドルあるいは20ドルにする事を直ちに可決させられるはずだ。議会は1億ドルもの価値あるものをただの一法案で評決してしまい、それは夫々の州で浪費されるのに、命を危険にさらしてまで国家の名誉と光栄を維持し、国家の偉大さと繁栄を積み重ねようとする奉仕者に対する、絶対的に必要とされる給与の加増に反対する厚かましさはあり得ない。しかし正直な船員は政治家でなく、策略をめぐらしたり上手く言い抜けたりする政治的卑屈さを知らない。そこで政府が船員に十分な支払いを与えなければ、船員は自分で簡単な救済策を取り、軍務をあきらめる。そしてワシントンで海軍省のトップを占める年老いて頑迷な提督たちは、海軍省軍務部門の名誉ある立場を援助しようともしない。彼らは明らかに自分たちの偉大さを隠蔽し、彼らの最大限の能力を使い、その進路上の速度を緩める重しの役をやっている。彼らはとほうもなく嫉妬深く、空虚で、日本遠征やその他如何なる遠征でも、若者たちに彼らを目だたたせ、提督たちの功績を顔色無からしめる程の機会がある事を見るに堪えないのだ。従って、一時的な日本遠征の放棄は、老提督たちの偏狭で理不尽で利己的な方針が在るためだと言える。しかしながら一つだけ確かな事は、海軍省が我々が示唆した方向に進み、彼らの船員に寛大な報酬を与えるまでは、この偉大な共和国に名声をもたらす成功と光栄と共に、日本遠征を完遂できる効率的な海軍力を得る事は絶対に出来ないという事だ。そして若し、彼らの誤った管理とけちな方針で、国家の名誉が挫折により傷付けられれば、彼ら自身が民衆の怒りにさらされる事は良く分かるであろう。

この記事が明確に示唆するように、ペリー提督の出発遅れの原因を作ったもう一つの理由は、民間より低い軍艦乗組員の給与のため、必要な人員が集まらない事にあった。

 メディアの困惑

上記の厳しい評論が掲載された40日後のニューヨーク・ヘラルド紙には、1852(嘉永5)年8月8日の第2面に、「日本遠征はオランダに譲られた」と題する記事を掲げ、オランダ、アムステルダムの「ハンデルズブラット(Handelsblad)紙」の新聞記事に触れた。いわく

アムステルダムのハンデルズブラット紙によれば、我が政府は、長い間計画され、多く語られて来た日本遠征計画を放棄し、頭から尻尾の先までオランダに引き渡した。その情報では、我が内閣がついに、”1846年という早い時期から広範なヨーロッパ貿易の利益になる提案を日本皇帝に出していた”  オランダ政府との間で、調停の実施という経済的な方法に合意したものだ。・・・

と言う記事まで掲載した。これは、1844(弘化1)年のオランダ国王ウィレム2世の日本宛親書以降の状況を示唆し、オランダの日本開国努力がなされて来たと言うハンデルズブラット紙の記事の様である。こんなオランダ政府の方針に頼り、日本との関係をオランダ政府の調停に頼れば、アメリカ政府は日本遠征に必要な膨大な出費をせずに済むと言うものの様だ。これに対しこのニューヨーク・ヘラルド紙の記事の結論は、軍事力もあるアメリカ自身が行くべきだと主張している。しかしこれは一面、それ程までにアメリカ政府からの情報が何も無く、アメリカ国内では一種の疑心暗鬼に落ち込み、オランダの新聞記事にまで敏感に反応した様に見える。メディアには、こんな困惑が広がっていたのだろう。

しかしこれから50日後の9月27日になると、次の如く一転して明るい記事を載せ始めた。

 「ニューヨーク・ヘラルド紙」の明るい記事

この1852(嘉永5)年9月27日付けニューヨーク・ヘラルド紙の朝刊第2面に掲載された「東洋に向けた重要使節団」と題する記事いわく、

東洋に向けた重要使節団
ワシントンの権威筋により日本遠征が再び公にされ、今回はそれを実行する確実な意思が見える。ペリー提督の指揮下に入るミシシッピー号、プリンストン号、アリゲニー号の3艘の蒸気軍艦が遠征艦隊を構成し、日本近海に向け11月初旬に出発し、既にその付近を遊弋する艦隊と合流する予定である。勿論この使命は実行可能な限り友好的なもので、オランダ・インド領総督はオランダ政府から、日本駐在オランダ商館長へその権限が及ぶ限りアメリカの遠征隊へ便宜を与える様に指示すべく訓令された事実を知った。ビンセンス号が旗艦となる測量調査遠征隊が、リングゴールド海軍中佐指揮によりシナ海に向けた出航に取掛っている。更にその他、ハンフリー・マーシャル大将が支那への新しい使節として出発準備のためここに滞在している。

これ等が、その最終目標である偉大なアメリカの影響を及ぼすべく、アジア大陸に於ける支那、日本、東方世界へ向けた、貿易、通商、政策、教化、キリスト教的信仰、の新しい発展的活動確立の口火を切るための、全体像の構成要素である。我々は、この遠征がその目標達成に貢献する事を目指し、合衆国の名誉と栄光、利益を高める様に遂行される事を切に願うものである。

遅れに遅れたペリー提督の日本に向けた遠征の具体的な姿が、ようやく世間に明らかになった。ペリー提督は1852(嘉永5)年11月24日、蒸気軍艦・ミシシッピー号に乗り単独でノーフォーク軍港を出発したが、 これを報ずる新聞記事 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)  が11月29日付け「ニューヨーク・ヘラルド」紙に掲載されている。この記事も併せて参照して下さい。またこの記事中の、「オランダ・インド領総督はオランダ政府から、日本駐在オランダ商館長へその権限が及ぶ限りアメリカの遠征隊へ便宜を与える様に指示すべく訓令された事実を知った」と言う内容に関しては、 バン・トゥイストのペリー提督宛書簡 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)  を参照して下さい。 

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12/25/2020, (Original since 11/05/2018)