日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

江川太郎左衛門の台場築造と大砲鋳立

江川太郎左衛門は伊豆・韮山の代官であるが、その技術者として事実を見つめる沈着さと海防技術の理解の深さにより、時の幕閣に重用され、江戸湾に品川台場を築き大砲を鋳造し、ペリー提督の黒船艦隊の再来航に対する海防強化に貢献した。また高島秋帆に入門し、高島流西洋砲術の免許皆伝を受け、更に発展させる努力もしているが、蘭書を読み砲台設計や大砲鋳造を研究している。

 江川太郎左衛門の下田での経験

嘉永2(1849)年閏4月8日、英国軍艦マリナー号が浦賀水道や下田湊、伊豆大島近辺の測量調査の目的で浦賀に来航し、閏4月12日に伊豆の下田に入港した。この時、韮山代官・江川太郎左衛門もその帰帆を説得すべく韮山から下田に出張し、翌日15日の早朝小船に乗り、直接マリナー号に乗込みマリナー号艦長・マシソン中佐(Mathison、マジソン、またマゼソンとも)に会った。出された酒は断ったが茶を飲み、自ら速やかな退帆を要求し、マシソン中佐は風が吹き直り次第15日中の退帆を約束した。しかし、マリナー号に同乗していた日本語通訳・林阿多(アトウ、筆者注:元遭難漂流者・音吉)の流暢な日本語と、押しの強い艦長・マシソン中佐の矢継ぎ早の要求に少々てこずった。

このマリナー号には13門の大砲が装備され、乗組員は夫々銃を持ち武装していたが、この時江川は、大砲の発射に最早火縄などは使わず、小銃も火縄や火打石方式ではなくドンドル(筆者注:雷管、Dondervuur(蘭語))を使っている状況をも現場で見て、西洋における武器の急速な進歩を理解した。英語でガンロックと呼ぶこの大砲に応用した雷管は、1805年に始まったトラファルガー沖海戦時にイギリス海軍で使ったものだが、ハンマーに付けたヒモを引くとハンマーが雷管を叩き発射する方式である。江川はこんな自身の経験からも海防充実の必要性を痛感し、更に蘭書を研究していたのだ。

ここに当時のマリナー号艦長・マシソン中佐の日本沿岸測量航海の報告書抜粋がある(The Jouanal of The Royal Geographical Society of London. Volume the Nineteenth. 1849. London: John Murray, Albemarle street. MDCCCXLIX (1849). P.136-137)。いわく、

上海における1849年7月14日付け、英国軍艦・マリナー号・マシソン中佐から英国軍艦・アマゾン号・E・M・トロ―ブリッジ艦長宛報告書簡の抜粋。海軍本部提供。
拝啓、司令長官殿への情報として、先月5月14日付けの閣下よりのご命令により、本官指揮のマリナー号に乗り5月17日に日本沿岸に向かい、全行程で沿岸の水深調査をしながら5月29日、如何なる船舶の侵入も許されなかった地点より3マイル入った、日本帝国の首府から25マイルに位置する浦賀の町の沖に停泊した事を名誉を持って報告致します。

通訳として乗組む日本人が本官の渡航目的を現地の役人に伝えました。漢文で書いた本官の名刺を陸上の奉行に送り、本官と面会をする日時の指定を要求しました。奉行の回答は、本官にとっては礼儀上、奉行にとっては船を見たいという興味から、船に表敬訪問をし陸上で本官を歓迎したい訳ですが、しかし、如何なる外国人の上陸も彼等の国の法律違反になり、若し本官の上陸や湾内にこれ以上の侵入を許せば、奉行の命がなくなると言うものでした。

江戸湾の南西端に当たる三崎岬から8マイル程の地点に来た時に、夫々にマスケット銃と刀で武装した20人の男と5人の役人が乗り組んだ10艘のボートが船腹に来ました。役人は長刀と脇差を帯びていました。

本官が役人達を乗船させると、錨を入れず湾内を乗り回さず海上に留まるべく要求するフランス語とオランダ語で書かれた紙を示しました。しかしながら本官は航行を止めず、停泊地から2マイル以内に差しかかると風が弱まり、8時半ころ彼らは船を引き込む事を提案し、本官は受け入れました。

役人達が船から引き上げると、夜中多くのボートが我々の船を取り囲みました。台場は火を掲げ、男たちが乗り組み武装したほぼ400艘ものボートが岸辺に集められ、夫々に火を掲げていました。本官は、全く恐れをなしている乗り組みの通訳を通して彼等に相当な距離を取る様に要求し、大砲に充填させ、夜中甲板に見張りを置き、彼等の如何なる背信行為にも備えました。我が通訳の  ” オトソン(Othoson)”  が言うには、彼らは我々全員を殺害し、彼に対しては生涯に渡り苦痛を加えるから、いかなる場合でも上陸はしないと言いました。

浦賀は帝国首府の重要地点の様で、2万の住民が居て1200艘の小船がありそうです。江戸に行き来する全ての通船はここに来て税関を通りますが、江戸はその需要を海上交通に頼っているので、通常の武力で交易を完全に遮断できます。帆走軍艦に対する蒸気軍艦の優位さを以てすれば、本官への情報による5マイル以内にある江戸までの測量や水深測定は何の問題もないでしょう。この2都市間には非常に良い道路があります。

役人達は下級役人の様です。彼らは我々に礼儀正しく対応しましたが、どんな情報でも欲しがるのに、反対に何も開示してはくれません。船のあらゆる部分のスケッチをし、水や野菜や卵を供給してくれ、その後で何時本船が出航するかと言う質問を止めませんでした。

本官は航海長のハロラン氏に停泊地の測量を命じましたが、彼の観察付言と私の幾つかの付言とを添付し送付致します。この日は幸運にも晴れた好天でしたが、通常は厚く霧がかかりぼやけています。

本官は5月31日に錨を揚げ下田湾へ向かいましたが、そこで航海長に更なる正確な湾内測量をさせるため4日半滞在しました。その測量結果は同封し送付致します。

この停泊地には、本官も短時間上陸した3つの村がありますが、しかし役人が後を着けて来て、船に帰るよう懸命に懇願しました。彼らは沢山の魚を供給し、我々を引き出すための50艘の船を派遣して来ましたが、何とか我々に出て行って貰いたいと一生懸命でした。しかし天候のためこの停泊地に2日間滞留し、3日目に当地方を治める代官が乗船して来ました。彼は13マイル離れたみおまき(Miomaki)と呼ぶ町に住んでいます。彼は、家来達の敬いの態度から、明らかに上席階級の人物でありました。

浦賀のオランダ語通詞と2人の役人が、我々の様子を見るため(2日過ぎて)姿を現しました。彼らはお互いどうしのスパイの様で、殆ど何も語り合わず、こっそりしていました。

本官は6月7日に錨を揚げ、7月2日にこの停泊地に帰還しました。

この報告書抜粋は、日本側の当時の記録と比較参照しても、日本側とイギリス側のやり取りを良く表現していて、大きな違いはない。

 阿部伊勢守の「打払い令復古の可否」諮問と、江川太郎左衛門の意見

イギリス軍艦・マリナー号が下田を去って半月も経った嘉永2(1849)年5月5日、幕閣首座・阿部正弘は三奉行を始め海防掛け、また長崎奉行や浦賀奉行に向け次の様な諮問をした。いわく、

今年は長崎表へもアメリカ船が渡来し(筆者注:嘉永2年3月26日、プレブル号)、松前より送った漂流夷人共を受取り帰帆したが、定めてこのお礼などと唱え尚また渡来しないとも限らず、この程は浦賀表にイギリス船が渡来し(筆者注:嘉永2年閏4月8日、マリナー号)、目的も無くこの地へ見舞いに来た事を日本語で伝え、その他の申出や容体等も全く軽蔑し侮慢の情態で、その上薪水等を与えれば受取って出航したらまた下田表にも来て上陸し測量し、大島へはアメリカ船であろうかこれも上陸した様である。噂ではイギリス船には日本人や唐人等が乗り組んでいた様である。こんな成り行きを見ればそのまま放置も出来ないが、いよいよ蔑視し驕姿(=驕恣)放漫の所業にも及ぶかも知れない。そうなれば御国躰にも拘り、何分そのまま打捨て置けないから、文政度の趣の様に打払いの儀を仰せ出だされるのが然るべきと思われる。

と述べた後に、少しの忌諱や嫌疑も無いから存意一杯の所を申し出る様に、と諮問した。江川太郎左衛門はこの諮問に対し、嘉永2年5月25日、次の様に上申している。いわく、

異国船渡来の節、打払い有無の儀申上げ候書付

異船の渡来に付いては以前に復され速やかに打払いを仰せ出だされれば、御国威に恐怖し渡来しない様になる旨、世上一統は申している趣と承知して居ります。これは兼ねてのお触れの様に、彼方から乱暴を働くか、望みの品を与えても帰帆せず異議を唱えれば、速やかに打払い臨機の取計らいをする事は勿論の事でありますが、当時は享保寛政の政事に復されたものを、万一文化八酉年に仰せ出だされた趣に復し、無二念打払いを仰せ出だされては、かえって大事を引き出す基にもなり、太平の一弊で諸家の武備は薄く、たとえ打払いを仰せ出だされても、堅実な異船を打砕く程の熕砲が十分に備わっている向きは多くはありません。若しまた筒類が備わっていても奇正虚実を心得て臨機応変に振舞える者は甚だ少なく、ただ度々異船が渡来する事を鬱陶しく思い、先年の無二念打払いのご趣意の頃は異船の渡来も少なかったのに、これを目当てに打払いを主張するのはただ株(筆者注:権利)を守りたいだけの徒で、思慮もありません。若し打払いになれば、彼の国からも数十艘の軍船が来るようになり、その時の戦いに若し十分な利が無ければ、只今打払いを主張して居る程の者は必ず和睦等を主張するでしょう。そうなれば誠に御武威に拘り不用意な事になります。且つ、元来彼方では戦争の実地に馴れていて、此方では諸家の人員が山坂を奔走する事すら難しい者が多く、柔弱至極の者共であり、既に先達ても下田湊に異船が渡来したので大久保加賀守、水野捴兵衛、太田摂津守等より人数を差出し大砲類も少しは差廻しましたが、皆無用の熕砲で異船へ差向うべき有用な筒は一挺も無く、人員は勿論山坂の奔走に疲れ用立つ状態ではなく、防禦が行き届くはずも更に有りませんでした。他の大名達も多くは同様でしょうから諸家の武備も全て調べ、国中で夫々の御備え向が格別御手厚になるまではやはりこれまで通りの御処置に成し置かされ、今後異船が渡来し例え退帆が引延びても御仁政を施され、何回も申諭し異議に及ばない様に取扱う事が肝要と思います。天保十亥年中に私は浦々の見分け御用を仰せ付けられた後に差出したました外国事情申上書の内に記述してある広東と澳門の件は、終には彼の地も洋夷のために押領される様になるかも知れないと申上げてありますが、果たして清国の乱で今は英夷の所領となりました。然る上は、以前と違い宜しくない所に足溜りができてしまい、どんな点から見ても寛大の御取扱いをされるのが専一の儀と思われます。私の支配所には豆州海岸にある村々も有り、第一に下田湊御備え向に付いて先般申上げてある事もあり、私の意見を申し上げます。
  酉五月廿五日

この様に、打払いをしても進んだ大砲を満載した数十艘の軍船を派遣されたりすれば日本の現状ではとても相手にならず、まして清国に足掛かり迄つくられては、「例え退帆が引延びても御仁政を施され、何回も申諭し異議に及ばない様に取扱う事」以外に良策はない。これが江川太郎左衛門の答申だった。

この江川太郎左衛門の答申が幕閣内でどう評価されたか筆者には良く分からない。しかし阿部正弘のこの諮問に対し、会津藩主・松平容敬は沿海の防備がまだ整っていないからと打払いの不可を述べ、川越藩主・松平斉典も外国船打払令実施の延期を述べたから、幕閣・阿部正弘の言い出した打払い政策の再度の実施は無かった。しかしその後、嘉永3(1850)年から嘉永5(1852)年の半ば頃まで、非常に緩慢ではあるが長崎の砲台が強化されたり、金沢藩や佐渡ヶ島で新規の砲台を築造したり、また江戸湾入り口の相模国三浦郡・観音崎の砲台を改築したり、同地方の鳶巣、鳥ケ崎、亀ケ崎の3砲台を新築したりといった工事は所々で行われていた。

こんな中で嘉永5(1852)年6月5日、オランダの新商館長・ドンケル・クルチウスが長崎に赴任して別段風説書を提出し、更にジャワのオランダ東印度総督の公翰を受取って欲しいと真剣に頼んで来た。これらの中には、来年、アメリカ政府派遣の使節がアメリカ軍艦に乗り、日本に来航する計画がより現実的に述べられていた。このオランダ東印度総督の公翰やオランダの薦めるアメリカ使節への対応策は嘉永5年9月頃には幕閣に届いた様だが、依然として幕閣の反応は鈍く、何の危機感も無かった様にさえ見える。

 江川太郎左衛門の起用と、江戸湾防衛ラインの調査

さてここに、それまで江川太郎左衛門が蘭書を読み研鑽を積んできた知識を答申書に記した例がある。それは嘉永6(1853)年3月に幕府から、大砲の玉目、即ち口径の大小での有利、不利に付いての質問が江川太郎左衛門に出された件に対するものである。いわく、

三貫目、五貫目の大砲でも実丸では異国の大船は恐れないという事であるが、明確な証拠でもあるか申上げる様に、との質問は了解致しました。大砲でも実丸では異国の大船は恐れないという事は聞いておりませんが、小口径の筒は海岸の台場では役に立たちません。これは、エンゲルベルツと云う西洋人の著述した海岸防禦書の中に、弾の効果を出すには船の当たり場所と弾の大きさによる事が書いてあります。六ポンド(壱貫弐百九十目余)位では、幸い船の弱い部分に多数が当たれば別ですが、そうでなければ例え(筆者注:船の方々へ)百個二百個当たっても効果はなく、かつ最小の軍船でも弐拾四ポンド(五貫百六十目余)、三十六ポンド(七貫七百五十目余)を載せて来るので、海岸台場に小口径の筒を装備する事は適当ではなく、その成行は大口径の筒へ小口径の筒で敵対しても不利の基であります。もっとも小船のみが通行できる浅い水路では二十四ポンド筒が無ければやむおえず十八ポンド(三貫八百七十目余)筒を装備する事もありますが、十八ポンドを最小の筒と心得、水深の深い水路に造る台場には二十四ポンドより小さい筒を装備しない様、丁寧に繰り返し記述してあります。この様にお尋ねに付いて申し上げます。以上。
  丑三月

この様に当時、オランダの著者名まで挙げてその得失を書いた報告書は外に殆どその例を見ないから、江川太郎左衛門が如何に西洋の技術を学び理解していたかの好例である。筆者はここで江川の言う「エンゲルベルツと云う西洋人の著述した海岸防禦書」について、直接江川が読んだ翻訳書を知らない。しかしそれと思われるオランダ語の原書を元治元(1864)年9月に樸堂散人・西邨鼎が翻訳し識を入れた『防海要論』を見る事が出来た。この原書は「J. M. Engelberts: Proeve eener verhandeling over de kustverdediging. 1839.」と言われるが、これは江川の読んだ時から10年以上経過した後の「西邨鼎」即ち「西村茂樹」の翻訳であり、江川の読んだ翻訳書とは異なるものである。しかしこの『防海要論』の中に江川太郎左衛門の指摘と全く同じ表現があり、「海岸砲墩の主要なる部に二十四斤(ポンド)より小なる砲を備ふる時は、戦争の際、火力大いに敵に及ばざるの患あり。もし二十四斤砲の欠くるに逢うときは、やむ事を得ずして十八斤砲を用ふる事あり。然れども是は唯海水の深さコルベットを浮ぶべき時のみ、之を用うべし。若し海水夫れより深き時は、必ず二十四斤より小なる者を用いる事勿れ。」と出て来る。双方とも同じオランダ人の著者名・エンゲルベルツであり、指摘内容も同じだから、同じ原書であったろうと思われる。ここで細かい事ではあるが、江川太郎左衛門が用いた「ポンド」から「貫目」への換算率は、現代で使われる「1ポンド=121匁」ではなく、「1ポンド=215匁」であることを指摘しておきたい。

歴史的にはここから突然に、流れが大きく変わる事になる。嘉永6年6月3日、即ち1853年7月8日、ペリー提督率いる4艘の黒船艦隊が浦賀に現れた。 現地はもとより日本中に混乱を巻き起こし、江戸湾の内海深く小柴沖にまで侵入した黒船に驚き、幕閣も6月6日の夜中に再登城しペリー提督の要求するアメリカ国書の受け取りを決めた。ペリーは久里浜に上陸して日本側代表の浦賀奉行・戸田氏栄と井戸弘道に国書を手渡し、更にあたかも無人の地でもあるかの様に小柴沖を測量し、来春また国書の返事を受取りに来ることを伝え、6月12日に江戸湾を退去した。

実際にやって来て、予想を超えたペリー艦隊の威容に背中に火を付けられたほどに慌てふためく幕閣は、ペリー艦隊退去6日後の6月18日、若年寄・本多忠徳を中心とする勘定奉行や目付達に韮山代官・江川太郎左衛門を勘定吟味役格に任命して加え、防衛上の観点から江戸湾を取り巻く全海岸を巡視させた。これは当然、外国軍艦の江戸湾侵入から首府・江戸とその近辺を守る目的で、更なる有効な砲台を造り、その侵入を防ぐ事である。江戸幕府は、文政8(1825)年に異国船打払令を出す30年以上も前から相州・城ヶ島台場と対岸の房総・洲崎台場ラインを防衛線とし、その後また、浦賀・平根山台場や観音崎台場と対岸の房総・竹ヶ岡台場や富津台場ラインも防衛線に加え、更に久里浜・鶴崎台場や浦賀・千代ヶ崎台場等も増築し、浦賀水道の狭まった岬間を大砲による防衛ラインとして来たわけだ。しかし、その後も観音崎近辺に鳶巣台場、亀ヶ崎台場、鳥ヶ崎台場等が追加されたが、伝統的な築城法を使った台場と和式を中心とする大砲では最短距離ほぼ8km ある相州・観音崎と房総・富津ラインと言えども、防禦上十分な有効性は無かった。今回は更に薪水給与令という幕府方針もあり、またペリー艦隊に搭載された多くの大口径大砲の威力にも恐れを抱き、易々と内海深く小柴沖にまで侵入されてしまったのだ。従って、今回の巡視と測量結果によりこんな艦隊に対抗できる、強力な台場を造る目的があったのである。

実際ペリー艦隊側では望遠鏡を使い、当時の江戸湾にある台場の位置やその規模や動きを充分に観察していた。ペリー提督が書いていた自身の日誌にも、「布巻き砲台( Dungaree Forts )」と言うニック・ネームを付けて、「幾つかの ”布巻き砲台” が見えた。」と出て来る。これは日本の戦場での伝統として、「陣幕」を張る事が一種の定型・作法の様になっていた様だが、台場には必ずこの陣幕が張られていた様だ。「ダンガリー( Dungaree )」とは17世紀ころからインドで造られ輸出されていた、現代のジーンズの厚織の木綿布の様なものである。アメリカ側は、陣幕で貧弱な大砲を隠蔽した砲台だと観察した様である。

若年寄・本多忠徳一行の巡検が進む中の嘉永6年7月13日、本多忠徳は同行の川路聖護と江川太郎左衛門に相州・観音崎の旗山や十石崎の先から北東に当たる富津の出洲に向け、海中に雁行する形で飛び飛びに台場を新築出来れば理想的である。これは明らかに大工事で直ぐ成功するとも思えないが、とに角要所の事であり、帰府したら提案したい。富津やその他の暗礁を埋立てて台場にする事なども含め調査検討し、報告する様にと命じた。江川と川路は早速現地で地形や海中の深浅を測量し、現地台場を警備する藩士や漁師等からも浅瀬等の状況を聞き、検討を加え、連名で7月25日、川路が代表して本多宛に意見書を提出した。その中で、@ 富津の方から旗山前まで2里ほどの所を9ヵ所の台場を海中を埋め立てて築造する、A 富津の隠れ洲を埋立て猿島方向に合計7ヵ所の台場を海中を埋め立てて築造する、B 富津の隠れ洲の内側の藻草の生える浅瀬(筆者注:アマモ場と思われる)を埋め立て猿島方向へは海中を埋め立てて台場を築造する3案を比較検討した。この3案の中で富津の方から旗山前まで2里ほどの所を9ヵ所の台場を飛び飛びに海中を埋め立てて築造する案が良さそうである。しかし、築造費用に制限をつけず年数をかければ別であるが、今回の様に早急に必要とするにはその成功が覚束ない。従ってこの場所はお見合わせになり、品川など内海の台場を造る案を検討し見積りを提出したいと答申した。

 江川太郎左衛門の意見、「台場築造と軍船や蒸気船の購入は一対の計画であるべき」

ここに江川太郎左衛門が一通り海岸見分けを終え幕府宛に提出した、「海岸御見分に付、見込の趣申上候書付」という報告書がある。「丑7月」の提出になっていて特定の日付けは無いが、筆者には、若年寄・本多忠徳当てに提出した上述7月25日付けの川路聖護と江川太郎左衛門連名の意見書より数日早い様に思われる。ここで非常に興味深い事は、本文に「御軍船の義に付いては・・・」と、最初に「台場見分け」を説明する前に、軍船・蒸気船の購入に付いて繰り返し書いている事である。いわく、

一、御軍船の事に付ては毎度申上げて置きました通り、堅実な物でなければ御備えになりませんので、早速阿蘭陀人へ仰せ付けられ、軍船と蒸気船を御取寄せになり、猶その上にも在留の「カピタン」へ「リニー」「フレガット」「コルベット」「ブリッキ」「ボンバル」「デールコルベット」「カノネールボート」船等の雛形を造る様に命じて頂きたく、これは私共でも蘭書を種々調査致しますが、真の物が有れば直ぐに事柄を理解できるからであります。その上では取寄せた船を手本に数百艘の造船をすれば、実に御国威を振るう基本となります。一体是迄に異船渡来の都度々々彼是心配するのも、畢竟彼の船が堅実である事と砲術が精密である故であり、此れが前から優劣が無ければ、敢えて懼るべき事はありません。且つ器械が備われば士気盛んになる事は自然の道理であります。去り乍ら早急に船の中での働き方に熟練も出来ませんが、台場の助けになるためには速やかに御用立てて頂きたいものでありす。尤も無事の時節は右船に積んで御廻米等の運送をすれば、自ら船の取扱いにも熟練し、御米も無事に着岸出来ます。これを精々お世話なされば、地球を一周するとか和蘭陀まで派遣するとかに付いてどうお考えかは分かりませんが、一両年の内には平常乗り回る海上では急度お役に立ちます。今回の御見分けに付いても種々勘考致しましたが、何れにも御軍船の御製造の事は当節の御急務と存じ上げます。
一、品川沖の事は海の浅深は大体弐、三間でしか無く、埋立方も御手軽であり、羽田前より中川尻へ取付け、両国川尻等へも夫々御台場を御取り建て、其の上相模国三浦、鎌倉郡、東側は安房、上総国の内へ砦等も御築き立て、海陸の御警衛が確立する様にしたく、御台場の箇所併せて位置等は猶取調べて申上げます。尤もたといこの様に成りましても、前条に申上げました御軍船の御製作が無くては、誠に窮屈なものに成り、迚も十分な御全備とは申上げる事は出来ません。
一、富津洲の先に廻船通路だけ残し其の他は悉く埋立る様にとの御沙汰の件に付いては、夫々見積り等をなさると言う事で、篤と検討致しました処、右洲中を残らず埋立るという事も御手重であり、保全の仕方は如何すべきであるか、且つ江戸内海へ出入りする潮水を呑み吐きする海口のため、その殆どを埋立すれば潮水はこれに激突し、汐路が狂い、思いもかけぬ洲中で切れる所が出来、どんな不便利な状況が生ずるか計り難く、この様な理由により洲先は先ず其の儘にして置き、汐路に逆わない様に旗山岬より富津台場を見通す海中の拾町目々々々へ新規御台場築立て、其の間々へ少々ずつ引下がり当御台場をお取建て、二十四ポンドより八十ポンド迄の大筒を据付け、小筒と併て短筒も人数に応じ銘々へお渡し、常に大小砲の打方の稽古等厚く御世話なさる事が然るべきと存じ上げます。もっとも右御台場の大小と位置の件は、御勘定方取調べの絵図面へ掛札を付け追って申上げます。これは今必要となりますので、(筆者注:富津洲中の事は)前書の様に調査するとした件ではありますが、富津洲中の事は容易に決定しかね、とに角も試しとして右洲の先へ沉枠(=沈枠)九組も差入れ、保持の仕方、洲の変化等を知り、その結果により洲先から猿島まで埋立が出来るか、なお再考いたします。
  但し、旗山より富津迄の間に御台場を築き立てても、万一洪波(=大波)等が打ち崩すかも知れず、そうなった時に御台場は仕方が無いとしても、大筒その他莫大な費用をかけた品々が一時に海底のものになるかも知れないと懸念し、彼是再考しました。旗山より富津にある台場まで凡そ壱里三十五町余の内、旗山より五町程隔たった所より凡そ壱里程の間を、干潮時には所々上面を顕し満潮時には冠水する程に埋立て、船路を確保し、そこから富津浅瀬の方へ御台場を取建てなされば本文に申上げたものよりお手軽になろうかと存じ上げます。
右は一通り見込みの内容を申し上げるものです。
  丑七月

江川太郎左衛門はこの様に意見を述べたわけだが、台場を造っても、西洋船ほどの機能を持つ軍船や蒸気船との組み合わせでなければ、十分な防禦にはならない事を繰り返し述べたのだ。ここで「彼等の軍船が堅実である事と砲術が精密である事」が日本側の恐れの根本原因であり、これを同時に実現しなければ片手落ちであると言う事実を明瞭に述べたのである。

さてここに、この江川太郎左衛門の意見に全面的に同意し、早速オランダに大船と蒸気船を発注したかの様に響く、嘉永6(1853)年7月25日付けの老中首座・阿部正弘の書簡がある。これは前水戸藩主・徳川斉昭に宛て、「江川太郎左衛門は軍艦の製造まではとても手が回らないと言うから、御家家臣・鱸(すずき)半兵衛に命じ、水戸藩で大船の一、二艘を製造してもらえないか」と依頼する書簡に添付した「別紙」に載っている。いわく、

先達て長崎奉行へ説明し命じておいた阿蘭陀の大船と蒸気船等を御取り寄せの件は、七、八艘、十艘計りと申上げて置きましたが、猶また考えた所、いずれにも諸大名共に大船を御許しにならなければ叶わず、この時節では何程沢山の大船を阿蘭陀より持越しても、公儀の御用だけでなく、諸家へも御許しの上は、上より夫々へ導入するお世話をしても当然であろう。そうであるなら不要にはならない。且つ発注するのなら、運送便利のために国中に使用させようとの趣意でわざと沢山発注し、是非々々この数だけ揃えて完納する様にと日限を阿蘭陀へ談判するする方が却って御国威も顕れるのではないか等と愚考し、長崎奉行へ軍艦と蒸気船合わせて五、六十艘取り揃え差出すようカピタンへ申し達する様に、細かく旅の途中へ直書を出して命じて置きましたが、どうお考えですか。そうなればその内に日本でも追々造船が出来ますが、それに関わらず阿蘭陀より取寄せるものは公儀で直ぐに使用し、諸家でも直ぐに利用でき、便利であると思います。序で乍らに極内々に申上げます。

実際に現れたペリー艦隊の黒船に驚いた阿部正弘と幕閣は、人が変わった様に費用もいとわず、内海台場築造、大砲の鋳立、大船建造、ここに書いた 軍艦の購入筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)、洋式火技奨励等、次々と防衛策を実行に移して行く事になる。

 品川沖の内海台場築造と大砲の鋳立

来年春には再度来航すると言い残して退帆したペリー艦隊がやってくる前に少しでも台場を増強し大砲を設置したい幕閣は、江川太郎左衛門が中心的役割を担って推奨する品川近辺の内海台場を築造する事に決定した。本来なら江戸湾そのものに入れたくないのだが、観音崎の旗山から富津に架けたラインを封鎖する工事はやった経験もない超大工事であり、来春に間に合わない事は誰の眼にも明らかである。しかし江戸の街には絶対に入れないのもまた、大きな覚悟であった。

嘉永6(1853)年8月2日、正式命令・老中申渡しが老中首座・阿部伊勢守から、勘定奉行・松平河内守(近直)、同・川路左衛門尉、目付・堀織部、勘定吟味役・竹内清太郎、代官・勘定吟味役格・江川太郎左衛門に下された。中心になる人達である。台場や大砲鋳造に付いてはここから予算の見積もりや工事の施工者などが決められて行く事になる。いわく、

内海へ御警衛の御台場御普請等の事は、急速に取掛る様に仰せ出された。追っては夫々掛も仰せ付けらる事であるが、尋常ではない事柄で、如何にも大業である。取調方等一通りには行き届き難い事ではあるが、何れも引続き取扱い、一同精力を盡し、何れにしても成功する様心得る様に。右御台場の取建て方や据付る大砲鋳立の事は、江川太郎左衛門へ引受る様に仰せ付けられたので、御台場の形や御筒の貫目、挺数等は、念頭にある所存の全てを取調べ、見込みの趣を早々報告する様に。

これは、「何れにしても成功する様心得る様に」と言う、非常に厳しい命令である。失敗は許されない、国の最重要計画であった訳である。また同様の命令が海防掛けその他にも出された。

        «  内海台場築造  »

築造する台場の数は江川太郎左衛門の推奨の通り、品川近辺から海中に合計11ヵ所と決まった。江戸幕府にはそれまでの歴史を通し、城郭築造工事、河川の改修工事、橋の新造・改修工事、浅瀬の埋立工事等今回必要となりそうな土木工事の経験と基本的技術はあった。そして青銅の大砲の鋳造技術もあった。しかし、こんな短期間にこれ程の大工事は初めてであったろう。今回老中申渡しで指名された勘定奉行を中心とする5人が中心になる工事は、勘定支配の樋橋切組方(といはしきりくみかた)棟梁と経験のある江戸市中や近村の村役人を通じ行うものである。しかしその過程で、多くの工夫が必要な海面石垣築き立てなど、下三奉行と呼ばれる作事奉行、普請奉行、小普請奉行に統括される組織からも必要な知識を持つ棟梁などの応援を得る必要があった。地盤の軟弱な海底を埋立、その上に石垣などの重量物を築き上げるのは、現代でもそれなりの特殊工法があるから、陸上で城郭の石垣を積み上げるのとは大きく異なる工夫と工法が必要となる。そして埋立土砂は、現代よく使われる海底土砂による埋立やその浚渫船などは勿論なかったから、採土場は品川近辺の丘を切り崩し、土船で運んだ。現代は船底がそっくり開閉する土運船がある様だが、当時は全て人力であったから、人足を集めるだけでも大変な苦労であったと思われる。この時海中に造った台場は、徳川家康が河川の大規模な付け替え工事を行う以前から江戸湾に流れ込んでいた堆積物とそれ以降の堆積物の混合であろうが、基本的には永年に渡り関東平野から流れ込んだ堆積物である。重量のある台場を築くとそんな海底は一定の地盤沈下も有ったろうと思われるが、それに伴う排水溝なども必要であったろう。

幕府指定の台場普請に使用する建設材料は、関東から切り出す材木、相州の三浦岩、豆州の伊豆石が指定された。そして見積りと入札のため、嘉永6年8月16日、関係する棟梁達を品川宿に呼寄せ、現場見分けと説明が行われた。また8月24日からは老中・阿部伊勢守はじめ関係する幕府首脳が濱御殿庭先から船や馬で現地見分けに出発し、品川宿近辺の土取り場所を見分し、1番台場から11番台場の現地を見分して回った。特に台場を築き立てる浅瀬は幕閣の乗る大きな船は潮の満ち引きの状況により近寄れない事もあり、小さな艀も用意された。こんな手続きの後に、いよいよ台場築造が始まった。

ペリー艦隊が再び姿を現し、安政1年1月16日即ち1854年2月13日、7艘の軍艦が小柴沖に投錨した後も幾つかの台場はまだ工事中であったが、下田で台場に使う伊豆石を切り出している現場を、ペリー艦隊に乗り組んでいたモロー博士が見て日誌に書いた情景描写がある(A Scientist with Perry in Japan. The Jouanal of Dr. James Morrow. edited by Allan B. Cole. Chapel Hill. The University of North Carolina Press. 1947.)。いわく、

村の近くの岡を下った浜辺で、湊に浮かぶ船まで荷を運ぶはしけに石を積んでいる大勢の男たちが居た。はしけに着くまでの砂深い浜辺を越えようと、彼らは素朴な軌道と松の木を輪切りにした車輪を付けた台車を使っていた。軌道は古い荷船の厚い船べりから造ったもので、縦に割って二筋の軌条にしていた。石は大きな方形の塊で、青みがかった砂岩で2,3トンもあるものだった。石は8人がかりで、台車の後輪を据えて前輪を垂直に持ち上げ、石に縄をかけ後輪の車軸に結び、全員が合図しながら半数の男たちが後ろからこじ上げ残り半数が前方で引き下げて台車に乗せ、はしけまでの100ヤードを運んだ。浜辺の砂地から丘の上の石切り場までの道路は立派で、滑らかに勾配を付け砕石舗装がしてあり、台車の移動には十分なものだった。台車は男たちが引いていたが、ある場所では急勾配でも危険はなかった。

モロー博士のこの日誌の日付は1854(安政1)年4月21日であり、条約調印を終えたペリー艦隊が横浜から下田に着いた直後の事であった。

        «  大砲の鋳立  »

青銅大砲の鋳立は当然、ペリー艦隊に搭載された物と同じような威力を発揮できる物が欲しかった。恐らく今まであまり作った事も無い様な大口径砲を何10挺も造る事になる。大口径の大砲は当然重量も重く、それに比例して溶融青銅を造る溶解炉の数も多くなり、出来上がった重い大砲を台場まで運ぶ搬出経路も考えなくてはならない。ここに嘉永6(1853)年8月8日付けの、阿部伊勢守宛に提出された「大筒鋳造之儀申上候書付」という書類がある。上述の総責任者である勘定奉行、目付、吟味役、江川太郎左衛門の5人からのものである。いわく、

内海御警衛御台場へ御据付けになるべき大筒に付いて、御台場箇所を聢と取り決めた上でなければ挺数は申上げ難く、且つ其の場所に応じ玉目の大小もありますけれども、大筒鋳造の事は悉く手数が掛かり、迚も一時に出来上がると申す状況にも至り兼ねますので、手廻しのため先ず取り敢えず八拾ポンドのボンベカノン(筆者注:ペキサンス砲とも呼ばれ、破裂砲弾も撃てる新式砲で、ペリー艦隊の蒸気軍艦に多く装備されていた)弐拾挺、弐拾四ポンドカノン拾挺の鋳造を仰せ付けられる事が適当と思われます。右に付いては地銅と錫は別紙の通り受取りたく、鋳立場所に付いては深川海辺新田地内に相応しい土地がありますので、この場所へタタラ場(筆者注:フイゴ付き青銅溶解炉)を築き立てる積りであります。右鋳造と併せて車台製作が必要な事は勿論でありますが、小屋場会所入用等の事は取り調べが出来次第にお伺い致したいと思っておりますが、差し迫って居りますので昨七日太郎左衛門と支配向き一同で見分し、支配御代官竹垣三右衛門へ糺しました所差支えは無いと聴きましたので、会所小屋場等の事は申上げ済みの積りで取掛らせました。このためご連絡書を弐通、絵図面を添えてお届け致します。以上。

この様に非常に急いでいるため、細部について伊勢守の了解を得ずに一部先行している部分もあった。しかしこの深川海辺新田(筆者注:現、東京都江東区扇橋2丁目・3丁目)は現在の小名木川沿いで、隅田川に接続し、水運は良かったが埋め立て地で、重量のあるタタラ設備を造るには足場が悪すぎた。そこで急遽、御茶之水桜馬場(筆者注:現、東京都文京区湯島1丁目)に変更したいと言う届が出されている。ここは少々高台で、神田川に面し、隅田川と接続するから水運も良かった。ここで言う80ポンドボンベカノンは、阿部伊勢守に出された届によれば、長さが1丈3尺3寸7分1厘、即ち4m5cmあり、重量は1382貫目、即ち5183kg あった。また24ポンドカノンは長さ1丈1尺5寸、即ち3m49cm、重量775貫目、即ち1906kg である。台場の詳細が決まらずとも、取りあえず5トン以上もあるボンベカノンを20挺、2トン近くあるカノンを10挺の鋳造を始めたのである。樫木と槻木(つきのき=ケヤキ)製の台車も製作したが、同時にまた、ボンベカノン用中空弾を3600発、カノン用実体弾を3600発も造っている。

筆者は当時の江戸幕府が行う土木工事や大砲鋳造の具体的な見積り方法や、請負制度などは良く知らない。しかし大砲鋳造に付いては、江戸府内の鋳物師と武州川口宿の鋳物師から見積書を提出させたところ、江戸の鋳物師は大筒出来上がり重量1貫目あたり平均で金壱分永五十文、川口宿は金弐分永百七拾五文と、江戸の倍以上もの高値だった。そこでまた江戸浅草新堀端浄福寺門前鋳物師・萬吉外壱人に再度交渉し、1貫目あたり永30文を減額する事で合意したので、この鋳物師・萬吉外壱人に請負を申付けたいと言う届が8月27日付けで伊勢守に出されている。浅草の鋳物師・萬吉と外1人は、約7パーセント弱の値引きで大砲の鋳造を落札した訳だ。

台場築造もある程度進み始めた12月7日、伊勢守宛に1番台場から6番台場までの具体的に設置する大砲の数が江川太郎左衛門と勘定方から報告された。即ち、1番台場:65挺、2番台場:65挺、3番台場:46挺、4番台場:28挺、5番台場:28挺、6番台場:28挺、合計260挺と云うものである。これは、上述の先行して鋳立を始めた青銅製の30挺、別途既に佐賀藩に要請した台車付き鉄製36ポンド砲25挺、24ポンド砲25挺、江川太郎左衛門が新たに反射炉を造り、鉄で鋳造する予定の鉄製87挺を含むものである。これら並行して進める3ヵ所での大砲の鋳造は、先ずは一番危険な隅田川河口から湾内に流れ込む水深の深い澪筋(みおすじ)を防禦するためで、品川沖で急いで工事を進めている1番から6番の台場に据付け様とする部分であった。

江川太郎左衛門は大砲鋳造の総経費を削減する目的で鉄製大砲の鋳造を目論み、既にいち早く反射炉を成功させていた佐賀藩に鉄製大砲50挺を鋳造する応援を頼んだ。そして更に嘉永6(1853)年11月、江川の代官所管轄下・伊豆国賀茂郡本郷村(筆者注:現、下田市高馬、たこうま)に反射炉と必要設備を造り、自身で鉄製大砲の鋳造を引き受けたいと提案していた。これは、伊豆天城山南麓の梨本村から出る特殊粘土の白土を使った焼石(筆者注:レンガ)と呼ぶ素焼きの石で反射炉壁を造り、反射炉で銑鉄から鋳鉄を造る。鋳込んだ鋳鉄製砲身の開口をする錐鑿(すいさく)機の駆動動力に水車を使える川のある、賀茂郡本郷村(筆者注:後に韮山に変更)での反射炉の建設と鉄製大砲の鋳造をすると幕閣に提案していたのだ。これに付いて12月13日に伊勢守から許可が出され、最終的に伊豆韮山で建設が始まった。しかしその後、翌安政1(1854)年11月の安政の大地震で設備に被害を受け、安政2(1855)年1月16日には江川太郎左衛門自身が病没してしまった。この様な不幸な出来事の外にも、韮山で鋳造した鉄製大砲は品質が安定せず、殆ど良品が無かったと聞く。大砲試射時に大半が割れてしまったのだ。当時はその原因が不明だったというが、韮山で使った銑鉄の品質、反射炉の燃料などのため、溶けた溶湯の流れ不良や、その溶融過程で充分に炭素量を制御できず、脆い鋳鉄砲になった様だと聞く。

一方の佐賀藩に依頼された鉄製36ポンド砲25門、24ポンド砲25門の鋳造は、幕府の依頼を受けた時からあった溶湯の流れやその他の疑問点があり、この納入も遅れた。安政1(1854)年閏7月、佐賀藩の担当者は破裂した大砲の破片や原料の銑鉄を持って幕府の許可のもと出島に行き、滞在するオランダ蒸気軍艦スームビング号艦長・ファビウス中佐に見せて意見を聞いた。ファビウス中佐曰く、原料の銑鉄は白すぎ、大砲の破片の鋳鉄破断面は黒すぎるという意見だった。江川太郎左衛門の韮山反射炉が直面した困難と類似した、溶湯の不均一や砲身鋳鉄内の炭素の制御でまだ問題があった様である。その挙句、長崎奉行所の目付に佐賀藩担当者とファビウス中佐の関係をも疑われ、出島出入りが出来なくなった。その後佐賀藩の担当者は種々反射炉の溶解条件や原料の銑鉄に工夫を加えたのだろうが、その後に自藩・佐賀藩の長崎台場用に何挺も鋳造したという。実際に品川第6台場で佐賀藩製造の鉄製36ポンド砲の試射が行われたのは、『佐賀藩海軍史』によれば、依頼してから4年半後の安政5(1858)年2月27日の事である。これ程に当時の日本では、韮山でも佐賀でも鋳鉄製大砲の鋳造に困難があったのである。現在の様に組成分析技術が無かった当時、試行錯誤で条件を追い込む方法しか無かったのだが、佐賀藩の財政もよく耐えたものだと感心する。そして佐賀藩はその4年半後に、名誉にかけて幕府向けの鋳鉄製大砲を成功させた事実は特筆されるべきであろう。

        «  主要部分の完成と将軍や老中の見分け  »

嘉永6(1853)年8月2日、施工の正式命令が老中首座・阿部伊勢守から出されて以来、昼夜を上げての突貫工事が実を結び、翌安政1(1854)年7月、第1、第2、第3台場の築造が完成した。これはペリー提督が江戸湾を退去してから4ヵ月後の事である。そこで老中首座・阿部伊勢守、老中・久世大和守、若年寄・鳥居丹波守、同・本多越中守、同・遠藤但馬守などが7月17日の早朝、まだ暗い午前4時頃自宅を出て品川台場に到着し、その完成状況を確認し帰宅した。品川でこの台場を造った位置は隅田川河口からの澪筋に当たり、軍艦などの敵対遡上を食い止める最重要地点である。横浜方面から江戸を攻めようと水深の深い場所を遡上すれば、必ずここを通過せざるを得ない場所である。従って江川太郎左衛門の工事計画でも、最優先の場所であったろう事に疑いはない。

ペリー提督も安政1(1854)年3月3日に日本側と和親条約を結び、全艦隊で下田に行く直前に江戸の町を是非見たいと、ポーハタン号に森山栄之助などの通詞を乗せたまま現在の羽田飛行場の直ぐ脇まで遡上して来たのだ。その時、「幾つかの急ごしらえの台場が見えた」筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) と自身の日誌に記載している。石垣は立派に完成した1番から3番のどれかを見た筈である。

そしていよいよ先行鋳造に入っていた青銅製の80ポンド・ボンベカノン(筆者注:ペキサンス砲)と24ポンド・カノンがほぼ完成し、第3台場に搬入され据付られた。10月19日には江川太郎左衛門自身が試射をし、また早朝の4時に自宅を出た若年寄・本多越中守も第3台場まで立会見分にやって来た。江川は早朝4時頃から連続25発もの試射を行い、夕方8時頃迄も試射が続いた。

こうして更に建設が継続していた5番、6番台場、途中で追加された御殿山下台場の合計6ヵ所の台場が安政1(1855)年12月になり大砲設置も含め完成し、順次各藩にその警備が移された。嘉永6(1853)年8月に正式命令が出されてから1年半後の事である。安政5年8月になって総建造費は75万296両を費やしたという清算報告が出されているが、これが現在どの位の価値になるか筆者には不明だ。100億円近くであったろうか。とに角、莫大なものであった。しかし上述の如く、中心になって防衛ラインを決め、台場を設計施工し、大砲の鋳造を進めて来た江川太郎左衛門は、誠に残念な事に安政2(1855)年1月16日、病没してしまったのだ。

幕閣はこの大業を見分すべく安政2(1855)年2月9日、老中・阿部伊勢守、同・牧野備前守、同・久世大和守、若年寄・鳥居丹波守、同・遠藤但馬守、同・酒井右京亮、その他海防掛などと共に早朝7時頃出発し、御殿山下の台場を見分した後見晴らしの利く御殿山に行き、各台場から順次空砲を打つ「演炮」を見た後、各台場を見分して回った。タイミングを取るため御殿山下台場から1番台場に旗で合図し、順次その旗信号が各台場に送られた。その旗信号を受けた各台場では大砲に爆薬を充填し、準備を整えて次の合図を待った。御殿山に登った老中達を見て旗を振り、御殿山下台場から2発の空砲を打ち、それが順次1番、2番、3番、6番、5番台場に受け継がれて行った。この演砲が終わると一行は船に乗り込み、1番台場、5番、2番、6番、3番と巡検した。一行はその後石川島に出来ていた大船製造所も見分し、浜御殿の庭に戻った。今度はその2日後の11日、幕閣始め役ゝを従えた将軍・徳川家定も朝7時頃城を出て品川に行き、同様の手続きで演砲を見分し、船での各台場見分は省略し、帰りには目黒で放鷹を楽しんだ様である。しかしこの6つの台場以外は、再び完成する事は無かった。

アメリカのペリー艦隊の黒船来航に度肝を抜かれて突っ走った品川台場の築き立てと大砲の装備や蒸気軍艦の購入は、ある程度の軍備を整える端緒になり、その後の国防技術の向上を加速させた。しかし幸いな事に、この台場から一発の大砲の玉も敵軍を目がけて打ち出されず、購入した蒸気軍艦も外国との戦争に投入される事は無かった。しかし国内の政治的な混迷が深まり、徳川幕府は消滅に向かう事になる。

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10/01/2020, (Original since 10/01/2020)