イライザ号のスチュアート船長、村井喜右衛門
アメリカのニューヨークに船籍のあったイライザ号は、次に書くグーレイ博士によれば、ニューヨークのスチュアート・ジョーンズ会社の持船であり、オランダ東インド会社に正式にチャーターされ長崎に来た船である。1797(寛政9)年と翌1798(寛政10)年の2回スチュアート船長の指揮で長崎に入港したが、第2回目の来航で、長崎からの出港時に起きた事故がここに述べる物語の主題になる、喜右衛門の沈船引揚げである。またこの時、オランダ語を話したと言われる前薩摩藩主・島津重豪と出島商館長・ヘンミーとの内密な違法取引にも拘わった事実があるという。スチュアート船長はその後独自に更に2回長崎に来たが、独自貿易には失敗した。このオランダ東インド会社によるアメリカなど当時の中立国傭船の事情は、「オランダにチャーターされたアメリカ船入港」(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) に記述してあるので参照して下さい。
♦ 船長・ウィリアム・ロバート・スチュアートについて
長い間日本も含めアメリカやオランダの歴史学者のナゾとされて来た、イライザ号船長・ウィリアム・ロバート・スチュアート(William Robert Stewart)の出自即ちその登場から死亡までの経緯が、ミシガン州立大学の元歴史学教授・ウォルター・E・グーレイ博士(Walter E. Gourlay)による2008年の論文で明らかにされた(「A Camel for the Shogun: W. R. Stewart and the Deshima Connection, 1797-1803」)。その記述によれば、出生日は不明ながらスチュアートはアメリカ人であり、推定で1768年の生まれと言う。そして1785(天明5)年にニューヨークのスチュアート・ジョーンズ会社が派遣し、アメリカ船としては2番目に広東貿易を行った、85トンという小型のスループ型イクスぺリメント号の積荷監督として乗組み、支那に航海した。其の後以下に記述する如く、イライザ号の船長としてバタビヤからの正式なオランダ傭船として2回長崎に航海し、その後エンペラー・オブ・ジャパン号とナガサキマル号の船長として独自に2回長崎に来た。アメリカの独立戦争が終わった後にイギリスの規制から解放された自由なアメリカ人であり、機会さえあれば果敢に世界中の冒険に乗り出した当時の典型的なアメリカ人の1人であった。その生涯の最後は、アメリカ合衆国のルイジアナ購入(1803年4月30日)後の南部・ニューオーリンズで困難な訴訟問題に巻き込まれ、ニューオーリンズで黄熱病に罹患し、1818年9月20日に他界したと言う。
♦ イライザ号船長・スチュアートとオランダ東インド会社との傭船契約
(典拠:東京大学史料編纂所報第12号(1977年)、標題:寛政九年アメリカ傭船イライザ号初度の長崎来航、著者名:金井圓)
スチュアート船長の指揮するイライザ号がどのような経緯でバタビアに来たのか細部は不明ながら、上記のグーレイ博士の「A Camel for the Shogun」によれば、1797年春にスチュアートはイライザ号の船長としてバタビアに来たと言う。そして中立国の傭船を探していたオランダ東インド会社と接触が出来た訳である。利益の合致したスチュアートはバタビアで、「目下当停泊地に停泊中のアメリカ船イライザ・オブ・ニューヨーク号の船長ウィリアム・ロバート・スチュアートは、上記の600トン積の船の所有者並びに船主として」、1797(寛政9)年5月25日付けでオランダ東インド会社との傭船契約書に署名している。これはバタビアからオランダの貿易品を積んで長崎に行き、長崎からまた貿易品を積み込んでバタビアに帰帆する契約書である。その対価は砂糖2千ピコルとコーヒー豆千ピコルであり、そしてこの航海には船長を含め81人とし、若し日本で船の修理をする時は全ての費用はスチュアートの責任とする等、合計19条に渡る細部の条件が取り決められていた。
更にまた長崎に入港するにあたって準備し守るべき手順の訓令書も与えられた。 これは1799(寛政11)年に傭船されたフランクリン号へ与えられた同様な手順の訓令書が既にこのサイトに載せてあり、基本的には同じ内容なので、「セーレムの商船・フランクリン号への「長崎入港手続き」命令」(筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用) を参照して下さい。
この時スチュアート船長の1797(寛政9)年の第1回目の長崎入港では、バタビアのオランダ東インド会社は、初めて送るアメリカ傭船のため日本人に不必要な疑念を起こさせない様に十分な注意をし、手紙で出島の商館長にその対処の仕方まで指示をしていた。しかし日本側も不正が無い様に十分な注意を怠らなかったから、違った言葉を話すこの小型船の入港には直ちに異常を感じ、「奉行や役人や通詞達を極度の混乱と不安に陥れた」と言う。当時の商館長・ヘンミ―も日本側が金額を制限している銅の輸出量や貿易金額の増加を求めながら日本側に圧力を加え、何とかそれ以上の関係悪化を防いだ様である。
この様にして第1回目の傭船は成功し、オランダ商館からはバタビアに2回目も同様にスチュアート船長と契約する様に要請がだされ、翌年の1798(寛政10)年もイライザ号が2回目の来日をする事になった訳である。この2回目の来航でバタビアへ向かって長崎を出港する時に、以下に記述する座礁と沈没事故が起こったのだ。
♦ 村井喜右衛門のイライザ号引き揚げに至る概要
イライザ号の座礁、曳航、沈没、浮上、修理場所の想像図
Image credit: Basic map: Google Earth.: 位置は、現在神戸市立博物
館に保管される『寛政十年戊午十月、阿蘭陀舩於唐人瀬沈舩。
同十一年己未正月、防州喜右衛門挽揚絵図・上』と題する長崎
版画を参考にして、筆者が推定し、追加した想像図。
村井喜右衛門は、干し鰯の買い付けや鰯漁で長崎の香焼(こうやぎ)島には時々仕事に来ていた防州都濃郡櫛ケ浜村(筆者注:現、山口県周南市櫛ヶ浜)の人である。この喜右衛門が、寛政10(1798)年10月17日夜に長崎湾の高鉾島の唐人ヶ瀬で座礁し、神崎(こうざき)西側スロープの木鉢浦で沈没したイライザ号を引き揚げるに至った経緯について、徳川幕府が大学頭・林韑らに命じ編纂した外交史料である『通航一覧・巻二百五十一、「阿蘭陀船浮方一件」』では次の様に記述している。いわく、
オランダ船が長崎より帰帆の時、高鉾島の近所、かちかけという所で岨に乗りかけ船底四、五ヶ所を破損し、其れより潮が差し込んで渡海出来なくなり、また長崎(自注、長崎より一里餘の沖、木鉢浦という所)へ帰った。荷物などを取揚げる内にだんだん潮が差し込み水船となり、終に又五間ほど沈み、船底は泥沼に座りどうしようもなくなり、長崎御奉行所へ申し出た。御奉行所から早速に御触れを出し、又高札等を建て、紅毛船浮かし方の工夫が出来る者が有れば申し出よとの事なので、長崎の町人四、五人が相談し御役所へ申し出た。十一月廿日より浮船に取り掛かり、多数の船を集め、はね木を仕掛け、又いろいろな手段を試みたが大船の事なので少しも浮き上がらず、日数四十日ばかりかけても其のしるしも無かったので、御役所へ御断りを申し出た。其の後防州串ヶ浜の船頭喜右衛門という者、年来長崎かしゆきと言う所へ鰯めの仕入れに来たり、或いは干鰯を買い取って諸国へ運送したりしていた(自注、喜右衛門、手網十帖仕入れ、網十帖所持す。網一帖に船六艘、人数五、六十人づつも懸かるとの事)。折節この沈船の様子を聞き伝え、費用を厭わず、何とか浮船にしたいと思い長崎御役所へ伺い出たので、同十二月廿七日喜右衛門が召し出され、何とか速やかに成功する様にと仰せ渡された。ここで翌年正月初旬より取り懸かり、日数廿日ばかりで同廿九日に無事浮船とし、新出島という所まで引き寄せ、其れより紅毛人へ渡し、来る四月下旬までに出帆したという。
この様にイライザ号の座礁と沈没、その修理と再出港の概要を記している。この時のイライザ号は、実際には寛政11(1799)年5月27日に再出港の準備を終え正規出航しているが、台風に遭い、また戻って来る詳細は後述する。
♦ イライザ号の座礁、沈没時の日本側の記録
イライザ号座礁時の経緯について、日本側の記録『通航一覧・巻二百五十一。「一宵話」』では次の様に述べている。 ここで引用された尾張藩校・明倫堂教授であった漢学者・秦滄浪による文化7(1811)年の随筆『一宵話』の記述は、寛政11(1799)年に刊行されたという『蠻喜和合楽』(村井栄治家本)に基づくものの様である(『徳山市立図書館叢書第6集・蠻喜和合樂』を参照した)。いわく、
(神崎脇で出帆の見送りの人々と別れた後)俄かに風が強く大波が起こり、大船を揺り上げ揺り降し、高鉾島の唐人ヶ瀬へ乗り上げ、船底を大岩で摺り破り、その穴から浸水が始まった。折しも悪風暴雨で大海は真っ黒になり、さしもの蘭船も転覆しかかった。平生大洋に馴れた蘭人は十四、五丈の大帆柱を大斧で三本打ち切り、ポンス二挺(自注:垢を繰り出す道具)で船中の水夫総がかりで死力を尽くして働いたが、沸き起こる潮水に精力が疲れ、防ぎかねて見えた。その時この船の黒人(自注:名はウヽノス、カピタンに使われ、長崎に七年居た者である)が進み出て、己の命を棄てて長崎へ注進し、救いを乞わんと言うと、カピタンがよく言ったと言ってバッテイラ(自注:伝馬船の事)を降ろさせそれ急げと言うや否や、ウヽノスは矢の如くに長崎番船へ漕ぎ付けた。役人(自注:成田繁二、杉山勘四郎)はウヽノスと共に飛船(=早い舟)で大波止(自注:長崎上り場、海程凡そ二里)より上陸し、蘭館の表門を打ち叩いた。この夜の宿番(自注:乙名横瀬九右衛門、通詞本木庄左衛門)は大いに驚き、蘭人ラスへ知らせ、それから総通詞に触れ渡せば、通詞(自注:岩瀬弥十郎、塩屋庄二郎、早川作太夫)や蘭人レッテキ、ボゲット、ウヽノスが共に鯨船で悪浪の中を命限りに難船の所へ馳せ寄せた。レッテキは難船に留まり、ボゲットはまた上陸し荷漕ぎ船を数艘連れて来いとカピタンが指揮したので、三原市十郎などがボゲットと共に漕ぎ返した。また鯨船の船頭に言い付けて木鉢浦小瀬戸辺りの漁船を漕ぎ寄せて助けさせ、役人とも粉骨を尽くし、火水になって(=勢い強く)大いに働いた(自注:竹田弥十郎、松本忠次、卯野熊之丞、塩谷、早川などなり)。その間に荷漕ぎ船もだんだんと馳せ付け、荷物を分け移し、数百の引き船で木鉢を指して引き寄せたが風雨が烈しく浪は高く、船底より入る垢は湧くが如く、もうどうしようもないと見えたが、鎮台(=奉行所)の検使もだんだん集まって来た。翌日十八日の朝六時頃より数百の引き船で引き寄せ引き寄せ、午後二時頃には土生田浜へ引き寄せた。九十余人の蘭人も小船で上陸した。この時他国より長崎に滞船して居て蘭人を乗せ荷物を分け積み漕ぎ廻る船としては、大阪の小新造(自注:九百石積)、加州の幸吉丸(自注:四百五十石)等という船が数十艘あった。蘭船は十九日朝遂に土生田の深泥の底へ沈んでしまった。ここは海底より一丈三尺余りの泥海である。そもそもこの蘭船は堅牢丈夫に銅鉄で巻き包んだものであるが、如何なる暗礁へ乗り上げても、岩は砕けても側壁や船底が裂け損する事はないと言えども、今回は船底を岩角で擦り削られ、少しの穴から垢が潜り込み、船中満水になったのである(自注:此船新造より凡そ百二十餘年歴るという)。十月十九日より木鉢の浜辺に仮屋を建て、沖掛かりの通詞(自注:石橋助左衛門、加藤安次郎等)二十人余りが役所を定め厳重に備え、沈船の上荷は残らず取り上げたが、彼の数十萬斤の銅は一斤も上がらなかった。これがカピタンの第一の歎きで、鎮台が紅毛船で難船した船を木鉢浦の濱手に引き寄せてあったが、垢が多く差し込み、半ば沈み船となり、殊に下積みの銅があり、このため差水が繰り上がった。
この様に書いている。
♦ イライザ号座礁時のアマサ・デラノ船長の記述と、ヘンドリック・ドゥーフの証言
アメリカ人であるアマサ・デラノ船長はスチュアート船長と広東でパートナーとなり貿易の成功を狙ったが、数々の困難の末負債を抱え、一人でアメリカに帰った。其の後『A Narrative of Voyages and Travels in the Northern and Southern Hemispheres. Boston: Printed by E. O. House, for the Auther. 1817』と題する冒険記を出版したが、その中で、後にスチュアート船長から聞いた話として次のような文章を残している。いわく、
スチュアート船長は、私と彼が一緒に仕事をした後で四回日本に航海した。三回はバタビアからオランダ東インド会社の傭船として日本に行き、一回はベンガルから航海したが、この時はイギリス国旗を掲げていた(筆者注:アメリカ国旗の間違いか)ため交易を開く事は出来なかった。スチュアート船長は私に次の様に話してくれた。暴風により700から800積載トンの船に乗ったまま長崎の大きな岩礁に乗り上げた。そこの春の干満の潮位は60フィートもあり、引き潮になると船は大きく岩棚の方に傾いたので、彼は船が転覆する事を恐れて帆柱を全部切り倒した。船は帆柱が倒れるショックで暗礁から滑り落ち、他の重い積荷の外に600トン以上もある日本産の銅を積んだまま12から15ヒロの深さのある水中に沈んだ。最善の策は何かを考えてみたが、日本の政府に援助を願う以外に船を救うどんな方法も無く、オランダ積荷監督の仲介で皇帝に願い出た。それは受け入れられ、皇帝政府が出来るあらゆる援助を行えという命令が出されたのだ。最初に政府の事業を任された人達が大金を投じて引き揚げの仕事を始め、色々と試みた。しかし船を引き上げる事が出来なかった。こんな努力の最中に一人の漁師が現場をよく見に来ては、どんなやり方をしているのか観察し、注意を払っていた様だ。政府の人達はあらゆる技能を使い切りこれ以上何もできなくなり、船は少しも動かず、あきらめて、この大切な仕事はもう出来ませんと皇帝に申し出た。政府のできる事は全てし尽くし、引き受ける者がいなくなったが、上に書いた漁師がスチュワート船長の所に来て、皇帝の人達には克服できなかった事を成し遂げる名誉のためにはどんな補償もいらないが、船を引き揚げようと言ってきた。彼は、皇帝の力を以ってしても何も出来なかった事が漁師には出来そうも無いと言われた。スチュアート船長は、漁師がやろうとしている方法を描いた計画図を見るため漁師の家に招かれた。スチュアート船長は彼と一緒に行き、それを見るや否や望んでいる事が出来るだろうと満足に感じた。彼にやらせてみようと思った。この計画はまず、しっかりした2組の大きな200トン以上の船を用意し、1艘を沈船の船首に1艘を船尾に付け、出来る限り多くの小型の船を沈船の両側に付ける。この漁師は裕福で各種サイズの船を所有していて、彼の所有する以外には船も人も雇う必要が無く全ての仕事をする事が出来た。引き潮の状態で全てを整えた段階で、全ての船を傾け固く結び付けた。潮が動き始めると大綱や繫索や船々が分解するかと思う程メリメリと音を立てたが、浮力に応じた力が分担され行き渡った後では沈船が海底から浮き上り始めた。浮き上がった船は都合の良い入り江に引き入れられ、満潮時に岸辺に向けられ、干潮に向かい小舟が切り離されると浮き上がった船は湾曲部から上部全てが水から出た。船荷は降ろされ、必要な修理が加えられ、積荷が戻され、出航できるようになり、船長には費用が掛からず、全ての費用は政府が負担し、無償だった。
この漁師が成し遂げた事が皇帝に報告されるや否や皇帝は、第一級か第二級の貴族の位を授け、二本差しを許し(この国の習慣である貴族の印)、護衛のための36人の槍兵を与え、階級の威厳を保持するに相応しい収入を与えるように命じた。これは、皇帝に仕える誰よりも素晴らしい働きをした事に対して授けられたものである。
この様に書いているが、かろうじて岩礁に引っ掛かっていたイライザ号はオランダ商館を通じ長崎奉行所の助けを求めたのだ。その間に転覆を恐れたスチュアート船長は重い3本の帆柱を切り倒した。瞬時に少し浮力が回復し暗礁から離れたが浸水がひどく、其の後日本側が帆柱を切り倒し浸水に苦しむイライザ号を木鉢浦の土生田の浜まで曳航して来た。しかし重い銅を船底に積むイライザ号は、殆ど甲板上まで海水に浸かり海底の泥に沈んでしまったのである。ここでアマサ船長の言う「漁師」の村井喜右衛門の家に日本側役人と共に出向いて引揚げ方法の説明を受けたスチュアート船長は、納得し、「彼にやらせてみようと思った」のだ。まさに喜右衛門の説明通り、その知恵で浮上させる事が出来、修理を終えたイライザ号は再度出航したのである。
ここでしかし、スチュアート船長がデラノ船長に、「船長には費用が掛からず、全ての費用は政府が負担し、無償だった」 と話しているが、修理から荷物の積み降ろしや補給品迄含み全てが無償だったと話したとしたら、これは全くの誇張である。確かに村井喜右衛門の土生田浜での沈船引き揚げと木鉢浦小瀬戸横辺りへの曳航は喜右衛門の名誉と引き換えに無償だったが、それ以外の座礁地点から土生田浜までの曳航や、荷物の積み降ろし、修理や再度の積載、補給品の追加まで無料だったとの記述は、筆者には見つからない。この時ちょうど修理が終わったイライザ号が出航した直後に、その後出島商館長に昇格するヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff)がアメリカの傭船・フランクリン号で長崎に赴任し、イライザ号救助の経緯を回想録『Herinneringen uit Japan van Hendrik Doeff』に書いている(筆者注:日本語への翻訳は、英訳版に依った)。いわく、
・・・荷物を船から降ろし、船を修理し、また積み込み、船を装備するにはスチュアートに責任のある莫大な金がかかった。日本における我が政府(筆者注:出島商館)はこの資金をスチュアートに貸し付けた。1799年5月頃に船の出航準備が整い、スチュアート船長は全員の忠告や最悪の台風が来る季節にもかかわらず、6月に再び出航した。1799年7月に私が初めてここに着いたその時、彼の船がその帆柱を全て失い、日本の海岸に向かって漂流した。私より1日遅れて(筆者注:長崎の)港に入って来た。スチュアートは台湾の南で遭遇したが、私も出会った3日間に及ぶ嵐で全ての帆柱を失っていた。それは私が出会った中でも最悪のものだった。新しく費用が発生し出資が必要になったが、事務主任・ラスがまた貸し付けた。11月になるとスチュアートはまた航海する準備が出来た。他の場所で述べた様に、その時に私もまたバタビアに向け出発する事になっていたが、私も、私が乗り込む予定の船(筆者注:フランクリン号)のデヴェロー船長も、一緒に航海しようとスチュアート説得を試みたが、聞かなかった。スチュアートは我々の出発日の12日前の11月12日に出航した。
ドゥーフはこう書いているが、1799(寛政11)年11月23日現在までにスチュアートには出島商館に対し、1万4千百両にも上る負債が有ったと言う。これはドゥーフの記述の如く、その時の事務主任・ラス(筆者注:商館長・ヘンミ―の1798(寛政10)年の江戸参府帰途の急死により、商館長代理)がその都度貸し付けたものである。
♦ 喜右衛門のイライザ号引き揚げと小瀬戸横への曳航
喜右衛門が成功した土生田の泥底に沈んだイライザ号の引き揚げについては、『通航一覧・巻二百五十一。「阿蘭陀船浮方一件」』にもある程度の説明が引用され、記録されている。然し喜右衛門は、イライザ号を土生田浜から曳航可能になる程にまで浮上させ、引き潮時には干潟になる500m程離れた対岸の木鉢浦・小瀬戸横まで曳航し、さらに浮上させて船底に積んでいた銅や残っていた積荷を陸揚げし、更に砂浜に引揚げ、ドックが無くてもイライザ号の修理が出来る状態にした。この仕事が終わると長崎奉行所の許可を得て寛政11(1799)年3月、郷里の防州都濃郡櫛ヶ浜に帰った。郷里でも喜右衛門の長崎での成功はたちまち有名になっていたから、萩藩から代官が来て櫛ヶ浜の辺りを管轄する花岡御勘場から、委細を報告する様に下命された。これに対する報告書として『肥前長崎於木鉢ヶ浦紅毛沈船浮方一條 花岡御勘場ヨリ御尋ニ付申上控』と題する史料がある。これは寛政11(1799)年3月21日付けで、喜右衛門自身から櫛ケ浜御庄屋・浜田伊右衛門宛てに出された報告書である。(筆者注:『肥前長崎於木鉢ヶ浦紅毛沈船浮方一條花岡御勘場ヨリ御尋ニ付申上控』、山口県文書館、特設文庫、県史編纂所史料、請求番号:県史編纂所史料184)
この喜右衛門の報告書は時系列を追って出来事を記している。
喜右衛門は例年の通り都濃郡御勘場(=都濃郡の役所)より関所通過の手形を貰い、寛政10(1798)年7月に長崎に来た。そして10月18日に長崎の木鉢浦という所でオランダ船が沈没した事を聞いたので、29日に沈没船の見物に行った。そこで沈没したイライザ号の番をする役人から、今回「沈船の浮上が出来る者が居れば申し出よ」と言う御高札が長崎に立てられた事を聞き、自分でも浮上をしてみたいという意思を告げたのである。これが御番所の役人達に伝わり上層部に伝わったのだが、喜右衛門の櫛ケ浜御庄屋・浜田伊右衛門に宛てた報告書いわく、
▪ 11月2日、木鉢浦に来る様にと言う御沙汰があったので現場に行ったところ、御番所役人が浮上させる意思に変わりはないかと言われたので、自分は浮上を請け合う積りですと申上げた。そこへ御目付・鈴木七十郎様の船が来たので、御番所役人がこれまでの話の細部を説明すると、鈴木様の船に自分を呼び出して直接、今回の浮上はどの様に行うのか聞かせてくれと言われた。そこで、先ず一番に船底の漏れを止め、船中の汐を汲出し、その上で種々の手段も御座いましょうが、その詳細は明確に言うことは出来ませんと申上げた所、それなら概略を書き出す様にと言われたので早速差出した。
先ず船を7、80艘そろえ、紅毛船の綱を借受け、その外麻綱、イチヒ綱、ヒノキ綱、等を使い、その上材木や板類も使い、土俵や空き樽、南蛮車その他いろいろ必要な物がある事を申上げた所、この内容を早速御奉行へ申上げるとの事で、船で帰られた。
こんな経緯があり正月明けの14日に長崎奉行から、土生田浜に沈んでいるイライザ号を引き揚げる正式な許可「浮け方御免の御書下げ」が喜右衛門に下された。上述した「イライザ号引き揚げに至る概要」にある如く、「長崎の町人四、五人が十一月廿日より浮船に取り掛かり、多数の船を集め、はね木を仕掛け、又いろいろな手段を試みたが大船の事なので少しも浮き上がらず、日数四十日ばかりかけても其のしるしも無かったので、御役所へ御断りを申し出た」。奉行所では明らかに落胆したであろうが、早速喜右衛門を大役所即ち「紅毛新屋敷」に呼び出した。その時喜右衛門は、諸雑費入用等の請求はせず、「万一私手内にて差し閊(つか)え候たり共、御加勢金請け申す間敷く」と言う御請け状を差出していたのだ。
この正式許可によりイライザ号の浮上に取り掛かった喜右衛門は、櫛ケ浜御庄屋・浜田伊右衛門宛ての報告書に続けていわく、
▪ 正月17日、人数およそ600人、船75艘、但し船別およそ60石積。
阿蘭陀船に綱6房借り請け、船の大廻りへ懸けた。但し綱の長さ150間、丸さ2尺1寸、1房に付き目方およそ8千斤。
▪ 正月18日、人数船同断。
▪ 正月19日、同断。
▪ 正月20日、同断。
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諸道具は次の通りであります。 一、大柱2本 但し長さ13尋、廻り6尺余。 一、柱20本 但し長さ8間、廻り5、6尺。 一、杉柱240本 但し長さ6尋、廻り1尺6、7寸。 一、杉板1枚 但し長さ6尋、幅5尺、厚さ8寸。 一、同18枚 但し長さ5尋、幅3尺、厚さ4寸。 一、杉柱80本 但し長さ6間、廻り5尺。 一、杉丸太500本 但し長さ8尋物。 一、同600本 但し長さ2間より3間物。 一、松板2間物12枚 但し幅1尺5寸物、厚さ8寸。 一、楠板12枚 但し幅1尺8寸、厚さ4寸、長さ2間。
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一、杉板12枚 但し幅1尺3寸、長さ4間、厚さ3寸。 一、大竹600本 但し1尺廻り已上。 一、麻綱100本 但し右の木類結付け入用。 一、ヒノキ綱イチヒ綱200本 但し右同断。 一、4斗入り明き樽200挺 但し大廻の浮けに相成る分。 一、同50挺 但し船のアカ汐取り退ける桶に相成る分。 一、土俵2千俵 但し船の左右水底へ柱立て入り用。 一、大束5尺〆て3千把 但し明松(たいまつ)に相成る分。 一、ナンバ車大小900車余 但し巻き道具に相成る分。
以上。
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▪ 正月21日、人数200人、船75艘。
▪ 正月22日より29日まで同断。その間昼夜詰め。但しこの日数の間に諸道具を仕構え(=設営を調え)て、2月朔日より浮け方に取り懸かった。
▪ 2月朔日、およそ3尺(=0.9m)計り上った。沈船の長さ22間(=40.0m)、横6間(=10.9m)、深さ6間(=10.9m)、石数は紅毛人が言っていた通り8千石積に間違いない。同日御奉行様より浮き初めの御祝として酒1挺、御肴1折下され頂戴いたした。
▪ 2月2日より3日、人数450人、船150艘。但し右方の間6尺(=1.8m)余り上がった。都合9尺(=2.7m)余り上がり、それから船75艘の船で釣り揚げ阿蘭陀新屋敷の下まで、船は残らず帆を上げ走り付いた。尤も沈船の場所より町数およそ5丁余りであった。
▪ 2月4日、人数300人、船75艘。但し今日3尺(=0.9m)計り上った。
▪ 2月5日、人数200人、船同断。但し今日7尺(=2.1m)計り上った。
同日、阿蘭陀人より悦として酒2挺、肴1折、御役人様よりの御指図で持参したので受納した。
▪ 2月6日、人数100人、船20艘。但しおよそ8歩処揚げしたので、阿蘭陀人多数が作事に取り懸かった。
▪ 2月7日より16日、人数150人、船20艘づつで日々取り懸かった。
▪ 2月17日、およそ1丈(=3.0m)計り揚がった処、赤銅100斤入り3千箱、ショウノウ入り箱、その外薬種入り箱が揚がった。
▪ 2月18日、人数船同断。 但し薬種類品々多数揚がった。
▪ 2月19日、多人数懸かり諸道具を仕舞った。
沈船は汐干潟へ揚げたので何れも船底までも自由に作事が出来るようになった。
▪ 2月21日、御用があるのでと長崎御役所から御呼び出しがあり罷り出でた所、殊勝な行為だとお思いになった御書き下げを頂戴致したが、次の様なものであります。
覚
防州都濃郡櫛ヶ浜船頭 村井喜右衛門
その方儀紅毛沈船浮け方の儀、紅毛人より相頼み候処差しはまり出精致し、殊に自身入用をもって早速浮ケ方相成り修理にも取り懸かり候段誠に抜群の手柄、紅毛人は申すに及ばず当所一統安心満足の事に候。よって褒美となし朝比奈次左衛門昌始これを取らせ候。
未2月 奉行
▪ 2月22日、阿蘭陀人よりフラスコ14本、御役人様御差し図を請け受納しました。
▪ 2月24日、大通詞様御4人より御料理御馳走下さり頂きました。
▪ 3月12日、最早浮け方が成就したので帰国の御願い申し出でた処、御免仰せ付けられ早速国元へ帰悦致しました。
以上の記述と長崎版画『寛政十年戊午十月、阿蘭陀舩於唐人瀬沈舩。同十一年己未正月、防州喜右衛門挽揚絵図・上』や『防州喜右衛門工夫ヲ以挽揚方仕掛大略・下』(神戸市立博物館保管)を参考にして見える事は、13尋(=23.4m)の大柱や8間(=14.5m)の柱とその外の柱を組んで土俵で強化した海底に入れて支えにし、それに滑車を仕掛けてイライザ号を吊り揚げながら、出来るだけ水漏れを止める手当てをし、排水をした様だ。吊り揚げる目的でイライザ号に巻き付けるためイライザ号から借りた大綱は150間(=273m)程あったが、喫水線近辺に船首から船尾に向かって水中で巻きつけた様である。周囲60間余りの船だから、1房で2周巻ける程だった。この船の周囲に巻き付けた大綱に滑車を仕掛けて吊り揚げ、浮きとする4斗入り明き樽200個も結び付けたものであろう。この様にして土生田浜に沈んでいたイライザ号を合計9尺(=2.7m)余り浮かせ、60石積の小船75艘を両舷側に、1艘の大船を船尾に結びつけ、船は残らず帆を上げ、木鉢浦・小瀬戸横の阿蘭陀新屋敷の下の汐干潟まで5丁(=545m) 程を曳航した。そこで更に10尺(=3m)ほど浮上させて汐干潟に引き寄せ、オランダ人船大工の修復作業も可能にした。その後11日ほどかけて更に1丈(=3m)ほど浮上させ、赤銅100斤(=60Kg)入りの箱を3千箱(=180トン)とその外ショウノウや薬種入り箱を回収した。
こんな素晴らしい仕事を完遂した喜右衛門は、長崎奉行・朝比奈河内守から顕彰され銀子30枚を貰った。オランダ人も取りあえずフラスコ14本を届けて感謝したが、国元からは奉書が来て永代名字帯刀を許され、領主・宍戸美濃守からは褒美の裃を貰い、領分中の百姓惣筆頭に昇進した。更に江戸までも報告が上り、老中・松平伊豆守信明からの賞美の言葉が喜右衛門に伝えられたと言う。
♦ スチュアート船長、その後の再度の来日
村井喜右衛門に助けられて浮上し小瀬戸横の木鉢浦の砂浜で修理を終えたイライザ号は、積荷を積み込み出航準備が出来た。上述の「イライザ号座礁時のアマサ・デラノ船長の記述と、ヘンドリック・ドゥーフの証言」の項で書いた様に、ヘンドリック・ドゥーフの言葉によれば、「1799年5月頃に船の出航準備が整い、スチュアート船長は全員の忠告や最悪の台風が来る季節にもかかわらず、6月に再び出航した」のである。ところがこの全員が心配し忠告した通り、イライザ号は台湾の南で台風に遭遇し、又々帆柱を失い、漂流船の様に長崎に帰って来た。ドゥーフがバタビアの正式なアメリカ傭船・フランクリン号に乗り長崎に着いた翌日の事であった。イライザ号の台風遭遇の事実は、このドゥーフの外にフランクリン号のデヴェロー船長も、長崎に向け航海している1799年7月9日の航海日誌に、「・・・昼頃、仮帆柱を立てて航海している船を見かけたが、台湾辺りで台風で帆柱を失った日本からバタビアに向かうスチュアート船長だと判った。」と記録していると言う(「The American Neptune. 1986, by Peter J. Fetchko 」)。ここでまたオランダ商館事務主任・ラスの援助で帆柱を治したスチュアート船長は、ドゥーフも、ドゥーフが乗り込んでバタビアに向かう予定のアメリカ傭船・フランクリン号のデヴェロー船長も、一緒に航海しようとスチュアート説得を試みた。しかしスチュアートは聞かず、フランクリン号の出発日の12日前、1799(寛政11)年11月12日に長崎を出航し、その後イライザ号はバタビアには到着せず行方不明になった。
* エンペラー・オブ・ジャパン号で長崎に入港
スチュアート船長は翌年の1800(寛政12)年6月にまた、突如としてエンペラー・オブ・ジャパン号に乗って長崎に現れた。1797(寛政9)年と翌1798(寛政10)年の入港時と同じ手続きを踏み、オランダ国旗を掲げて長崎に着いた。早速船にやって来た商館事務主任・ラスの確認を受け、日本側はバタビアからの正式な傭船であると認めた様だ。然しその直ぐ後の7月に本当の正式傭船・マサチューセッツ号が新商館長・ワルデナールとドゥーフを乗せて長崎に来たから、大きな矛盾が露呈してしまった。ドゥーフの回想録は続けていわく、
私が1800年7月に日本に戻った時、そこで又スチュアートに会いびっくりした。事務主任ラスが言うには、スチュアートは再度船を失い、今度は積荷も含めた全てだった。全てを失った後スチュアートはフィリピンの首府・マニラに着き、そこで友人が小型のブリグ船と積荷を購入できるように援助し、今回彼の負債を返すべく日本に来たのだ。ワルデナール氏がなぜ直接バタビアに行き船を失った説明をしなかったのかと聞くとスチュアートは、日本の負債を返してから行く積りだと言っただけだった。・・・しかしながらスチュアートの意図は不成功に終った。ワルデナール氏は彼の積荷を売却し、売上金を彼の負債の一部に引き当てた。そして商館長はハッチングス船長の監視下で彼をマサチューセッツ号に乗せバタビアに送還した。マサチューセッツ号の航海長と何人かの船員がスチュアートの小型ブリグ船の指揮を任され、マニラに一時寄港した後、ハッチングス船長がバタビアに着いた少し後でバタビアに着いた。捜査が行われている間スチュアートはバタビアやその近辺を離れない様に命ぜられたが、彼はベンガルに逃げ出した。一旦そこに着いたら疑いも無く彼は、自分は経験豊かで影響力があり、日本人を説いてイギリス人と自由貿易をさせられる人物だと彼等イギリス人に言う事が出来たのだ。これで彼がどう仕立て上げたか、お分かりだろう。
スチュアートがエンペラー・オブ・ジャパン号で長崎に来て滞在して居る間に、アメリカの正式傭船・マサチューセッツ号のハッチングス船長が長崎に来たわけだが、この船には、ウィリアム・クリーブランドという若者が船長付き事務官として乗組んでいて、細かい日誌を付けていた。この中でマサチューセッツ号が長崎に着いた日の1800年7月16日付けでスチュアートに会ったと書いている(「The Ships and Sailors of Old Salem. By Ralph D. Paine. 1st eddition, 1908」)。いわく、
日本、1800年7月16日(水)。・・・日本の役人達は全ての挨拶が終わった後で、船を見回り始めた。4人のオランダ人達と一緒にスチュアート船長とその航海士らしい2人が乗りこんで来た。(オランダ人達は)日本人と本当に親しかったが、同じく(マサチューセッツ号で日本に来た)スミス船長とスチュアート船長や(同船して来た)ドゥーフ氏やガニソン氏もお互いに親しい事を見てびっくりした。・・・スチュアート船長は前にここに2回来ていて、バタビアに居る筈が、そうはならなかったのだ。彼の船は昨シーズン、ここからバタビアに航海する途中で浸水沈没したが、彼と士官達、10人から12人の東インド出身の船員達がボートで助かり、マニラからほど近い場所に行き着いた。そこで前述したブリグ船を買い、また日本に来たのだ。その船に乗っていた他の者達は行方不明だった。30人程だったという。・・・
11月3日(月)。・・・私の理解では、スチュアート船長の財産は負債のために押収された。然し商館長は彼の持ち船にバタビア迄の食料の積み込みは許可し、船の処置はスチュアートの希望に任せた。彼自身はマサチューセッツ号に乗って行くべく命じた。ハッチングス船長とスミス船長は、マニラとバタビア迄スチュアートの持ち船を傭船する事を提案した。・・・
ドゥーフが回想した様に、長崎で逮捕されバタビアに送還されたスチュアート船長は、第2回目の1798(寛政10)年の傭船契約違反、今回の来日でのオランダ国旗の違法使用、オランダ商館即ちオランダ東インド政府への莫大な未返済負債、等の罪の審判中にバタビアからうまく脱走し、インドのベンガルに逃げ込んだ。ベンガルは、1765(明和2)年にイギリス東インド会社がベンガル地方の徴税権を獲得して存在感を高め、イギリスの植民地化が始まった場所であり、当時はイギリスの東洋貿易の中心地であった。ここは当然オランダ東インド会社は手も出せない聖域であり、スチュアートはここでうまく復権を図った様である。
* ナガサキマル号で再度の長崎入港
スチュアート船長は1803(享和3)年8月24日、またまた長崎にやって来た。今度はナガサキマルという名前を付けた船で、アメリカ国旗を掲げ、ニューヨークのアメリカ商船と称して通商を求めた。この時、平戸藩主・松浦清(静山)著述の『甲子夜話・八巻』に「去年蘭舶、駱駝を載せて崎に来る」とあると言うが、スチュアートは皇帝への贈り物としてラクダ、水牛、ロバ等を持って来た。
このアメリカ船入港の記録が『通航一覧・巻三百二十二。「答問十策」』に次の様に記録されている。ここで引用された「答問十策」は福岡藩の蘭学者・青木興勝により書かれた国防意見書である。青木興勝は福岡藩の買物奉行として2年以上も長崎に滞在し、通詞にオランダ語を習い蘭学修業に熱心だったと言う。その間にスチュアート船長にも会った事があると書いている。いわく、
アメリカ船が長崎に来て交易を願った。鎮台(思うに、この年肥田豊後守が在廳だったから、同人を指す)は許さず、帰帆を命じた。彼等が言うには、唐船と同様に俵物を以て交易したいと言った。これは彼等の謀計である。何故ならば、俵物類は(自注:海参(ナマコ)、乾鮑、昆布の類である)彼等には無用の品である。アメリカの船頭・スチュアートと云う者は、近年しばしば長崎に往来して、良く日本の時勢を飲み込んでいるので、初めからオランダと同様に交易を願えば許されない事を察し、当時自分の利を願わず、深く後年の事を思ってこの様に願ったに違いない(自注:スチュアートが長崎に来た起こりは、七、八年以前、オランダのカピタンが来日しなかった年に(筆者注:1797(寛政9)年の事か。)、ジャガタラ商館より買物の品ばかりを彼の船で長崎に送った。その時始めて出島に上陸し、在留のオランダ人に賄賂を送り、個人的に持って来た物ばかりをオランダの荷物だと言って交易した。併せて彼の言語と船印は全くオランダではなかった。また携えて来た毛織物の符号を見れば、ロンドンと云う文字があった。ロンドンはイギリスの都の名前である。従ってイギリス人である事は顕然としている。イギリスは御制禁の国だから、これを憚って出島と商議し、アメリカ人と言ったのだろう。またそのオランダのカピタンが来た時、彼はまたルソンから船を出してきた(筆者注:1800(寛政12)年の事か。)。これも紛れてオランダの脇荷物だと言って交易になった。脇荷物とは、船頭の個人的な荷物を言う。自分が察するには、スチュアートは全くイギリス国より日本の当時の形勢を偵察する間者であろう。彼はだんだんと長崎の事情に通じて来たので、オランダの手を離れ、自国の頭役の者を導いて来て、試みに交易を願った様だ。自分は昔スチュアートの容貌を見た。年は四十歳ばかりだった(筆者注:上述のグーレイ博士の推定から見て、青木興勝が長崎に居た頃、スチュアートは30才から32才くらい。)が、謀略がある者の様で、言語などは静かで婦人のようだった。自分はこれを察するに、若し交易を開いた時は長崎で受け取った俵物は直ぐ唐山や広東に持って行って荷揚げをし、唐山から鉛を受取り、これを自分の利益とし(自注:西洋船が広東に来て、鉛を貴んで交易したと云う事が、唐山の書籍にあった。)しばらくこの貿易をして日本に利益を出させておき、詰まりは交易に利潤が無い事を歎き賺(すか)し、終に銅を取るという巧みな仕掛けである事は明らかである。鎮台(=奉行)が神祖の御法度を守り、許さずに帰帆させた事は実に明識である。さて、アメリカに限らず全て横文字の国は、以降悉くこの様に計らうべき事である。
福岡藩は佐賀藩と交代で、当時まで150年以上にも渡り長崎の警備を担当していたから、警備担当藩の買物奉行という役割で長崎に滞在し通詞からオランダ語を習っていた青木興勝は、通詞の日常生活や出島オランダ商館との関係、またオランダ貿易船入港時の細部まで見聞する事が出来たのだろう。上述のグーレイ博士によれば、スチュアート船長はアメリカ人である。スチュアートは上述の如く、1800(寛政12)年にエンペラー・オブ・ジャパン号でオランダの傭船だと言って長崎に来て、直後に正規のアメリカ傭船・マサチューセッツ号で赴任して来た新商館長・ワルデナールに拘束された。そしてマサチューセッツ号に乗せられバタビアに送られた後、裁判中にイギリス東インド会社のあるベンガルに逃げ出した。従ってスチュアートは、1797(寛政9)年に初めて日本に来る以前からベンガルのイギリス東インド会社と関係があり、最初に長崎に来た時もあるいはその後も、ロンドンの毛織物も積んで来たのだろう。青木興勝が長崎に滞在したと言われる1798(寛政10)年から1801(享和1)年は、このスチュアートのイライザ号の沈没からエンペラー・オブ・ジャパン号での入港とその騒動の時期と重なる。従って、青木興勝が福岡藩の買物奉行として詰めていた蔵屋敷は輸入品の購入も行ったから、長崎の乙名に混じって脇荷の品物を見る機会でもあれば、「毛織物に付いていた符号にロンドンと云う文字を見つける」事も出来、直接スチュアートと身近に接する事も出来た様だ。
また、蘭学者の大槻玄沢が文化6(1809)年ころ編纂した『婆心秘稿』にもスチュアート船長に付いての記述がある。この中で、文化5(1808)年に起こったフェートン号事件の強い危機感から、イライザ号の船長として長崎に来てアメリカ人を名乗っているが、イギリス人ではないかと、上述の青木興勝と同様に強い疑義を表している。いわく、
(イライザ号にオランダ人船長だという人物が乗って来たが)スチュアートは実は舩主だと聞いた。性質は柔和に見え、人物としては小男である。しかし沈勇(=落ち着いて勇気ある)で奸智(=悪知恵)ある者と見えた。二回目の渡航時の様子から見ても知れる事である。彼が自ら言った事だが、彼は蝦夷地へは両度行ったことがあり、日本の東南海へ通り抜けた。是は全くイギリス舩に乗ったイギリス人であろう。後にこれが二つの疑いを起した不審の最初の一つである。又思うに、去る寛政八年はまさしくイギリス舩が八月に我が蝦夷地「アフタ」へ来泊し、九州豊前の沖にも異舩が見え東海にも見えたというが、恠(あやし)い事がないとは言えない。また翌九年は前に言った様に、同国の舩が蝦夷地の「エトモ」へ着いたという。これもまた思い合わせる事がありそうだ。
1797(寛政9)年の海戦でオランダ艦隊がイギリス海軍に大敗し北海の制海権を失う頃から、オランダは突然中立国のアメリカ船を雇い長崎に送り始めたが、2回目に長崎に入港したイライザ号のスチュアート船長は、不幸にも高鉾島で座礁した。幸いにも長崎で村井喜右衛門の知恵に救われ全財産を失う事は無かったが、出島のオランダ商館すなわちバタビア共和国政府に高額な借金を作ってしまった。これを何とか取り戻そうとスチュアートが際どい策を弄し、寛政12(1800)年と享和3(1803)年にまた長崎に来るという、なんとか商機をつかもうと一生懸命な姿がよく見える。同時に日本側では、寛政8(1796)年にイギリス軍艦が東蝦夷のエトモ(絵鞆、現、北海道室蘭市)を測量し、文化元(1804)年に来たロシアのレザノフから貿易を要求され、その後ロシア兵から蝦夷地で乱暴をされた。またイギリス軍艦・フェートン号が文化5(1808)年に敵対するオランダの長崎での商業活動を阻害しようと長崎港に侵入する事件が起きた。この様に著しく主権を侵害された状況下で警戒する日本側は、際どい策を弄し、4回も長崎に来たスチュアート船長の行動を深く疑い、アメリカ人と称するイギリス人かイギリス人の「間者」だと疑ってやまなかったのである。