日米交流
Japan-US Encounters Website
History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

 

サン・ブエナ・ベンチュラ号(サン・ブエナ・ベントゥーラ号とも)
(典拠:「Memorials of the Empire of Japon: in the XVI and XVII centuries. Edited, with notes, by Thomas Rundall. London: Printed for the Hakluyt Society. 1850」)

三浦按針ことウィリアム・アダムスは徳川家康の家来になったイギリス人であるが、アダムスが当時の日本から祖国・イギリスの知人に届くことを期待し、インドネシアのジャワ島西部にあるバンタム(筆者注:バンテンとも)の町に新しい拠点を造った、イギリスの東印度会社や知人宛の何通かの手紙が保存されている。1609(慶長14)年には平戸にオランダ船が来て商館を建設しているが、当時まだジャワ島のバンタムの町を拠点にしていたオランダ船に依頼し、祖国に宛てた手紙を託したのだろう。そんな手紙の中に、自身の手により日本で建造した2艘の外洋航海ができる船についての記述がある。

 ウィリアム・アダムスが日本で建造した、80トンと120トンの船

この船の建造については、「1611(慶長16)年10月22日、日本にて、ウィリアム・アダムス」と結ぶ、未知のイギリス人に宛てた長い手紙の中に出て来る。いわく、

名前こそわからないがイギリス商人たちがジャワ島に来ているという事を聞いたので、この好機をとらえ、私のよく知らないこの会社の人々に私の無作法を許してもらえると期待し、私自身を励まし、次の様な内容を書き送りたい。私がこの手紙を書送る理由は、第一に私の祖国の人々と祖国とを愛する気持ちからである。・・・

筆者注:徳川家康に救助され保護されて以降)以前から折りに触れ時々皇帝(筆者注:徳川家康)から呼び出されていたが、この様にして4、5年が経った時、皇帝から声がかかった。今回は、皇帝のために1艘の小型の船を造れないかと言われた。私は、船大工でもないし、造船の知識もありませんと答えた。彼は、まー出来るだけやってみなさい。よしんば良い船が出来なくても問題はない、と言われた。この皇帝の命に従い、私は80トン程度の船を建造した。これは、全て我々のやり方で造ったが、彼は船に乗り込んで見て回り、大変気に入ってくれた。こんなことがあって私はますます皇帝に気に入られ、もっと頻繁に皇帝の前に出たが、時々プレゼントを貰い、そしてついには1年の俸禄として、およそ金貨70ダカット分に相当する、日々2ポンド(筆者注:約6合)の俸禄米を貰うようになった。・・・

ここで分ってもらいたいことは、最初に建造した船で私自身が乗り組み一、二回の航海を行ったが、国王(筆者注:徳川家康)がもう一艘の建造を命じたので、120トンの二艘目を造った。この船でロンドンからリザード(Lizarde、現在は Lizard と綴る)あるいはイギリスの島の端までに当たる距離がある、都(筆者注:大阪あるいは堺)から江戸まで航海をした。この船は、西暦1609年に国王がマニラの総督(筆者注:日本沿岸で遭難したドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ)に貸し与え、80人の従者と共にアカプルコまでの航海を行ったのである。1609年に、およそ1千トンのサン・フランシスコ号と呼ぶ大型船が、北緯35度50分にある日本の海岸に漂着した。天候上の危難にかかわり、船のメイン・マストを切り落とし、日本に針路を向け、何も見えない夜中に船は岸に乗り上げ難破してしまった。そして36人が溺れ死に、340人から350人が救助された。その中に、新スペイン(筆者注:現在のメキシコ)に戻る途中のマニラ総督が乗り組んでいたのだ。そしてこの総督は、1610年に私の造った大きい方の船でアカプルコに送られた。そして1611年にこの総督は、他の船に多大な贈り物と同時に皇帝の素晴らしい友誼への感謝のための使節筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)を乗り組ませ、更に皇帝から借りた大切な船に対する贈り物と対価の礼金を乗せ送り返した。この皇帝の船は今、スペイン人がフィリピンで使っている。

さて、この私の成し遂げた貢献と日々行っている皇帝の命に従う奉公に対し、皇帝は私に英国における貴族に似た領地と、私に奉公し付き従う八、九十人の農夫とを与えてくれた。ここでのこんな待遇、あるいは領主のような地位は、かって異国人に与えられた事はなかったものだ。こうして神は、私の悲惨な境遇の後に、私に与えて下されたのだ。そして神にのみ全ての尊敬と賞賛と、全能と賛美と、現在未来永劫、終焉なき世界があらんことを。

この手紙はまだ長く続くが、徳川家康の命に従い2艘の船を自ら建造した経緯と、自身が旗本に取り立てられ領地を与えられた事を述べている。そしてこの手紙の中の、「この船は、西暦1609年に国王がマニラの総督に貸し与え・・・」と書いている船が、アダムスが新造した120トンの船 「サン・ブエナ・ベンチュラ号(ベントゥーラ号とも)」の事である。

また、アダムスがこれら2艘の船を日本で造った経験に基ずく、造船コストに触れたアダムスの書簡がある。これは、1613(慶長18)年12月初め、イギリス商館を平戸に造ったジョン・セ−リス船長がクローブ号で平戸を出港する直前に書かれ、そのクローブ号で送られた、イギリス東インド会社宛てと思われるアダムスの書簡の中に出て来る(「Letters Received by the East India Company from its Servants in the East, Volume 1, 1602-1613. London, Sampson Low, Marston & Company, 1896. P-326」)。いわく、

船の手配に関してでありますが、若し貴役員方が船を出さず、探検に必要な船を造ったり或いはそんな船や端艇を安いコストで造らせたりする場合、ここ日本での船の肋材や厚板、鉄材、麻、そして船大工の工賃といった造船諸経費は全く安く上がります。松ヤニは充分ありますが非常に高価で、帆布は良品が無く高価です。これらの情報は、私がこの国で皇帝のために2艘の船を造り、その1艘は事情によりスペイン人に売られ、もう1艘は私が日本沿岸で数々の航海に使った経験からのものです。
この様にアダムスが日本で造った船は、当時もっぱら高性能のガレオン船を使うスペイン人が、フィリピンで使う程性能の優れた船だったわけだ。恐らくガレオン船に匹敵するものだったのだろう。そんな船を徳川家康の求めに応じて造ったアダムスは、家康がその世界航海の知識習得と共に浦賀貿易をアダムスに任せたいと思い、浦賀から北西へ7qと非常に近い逸見(へみ)に250石の領地を与え旗本に取り立てた理由であろうと思われれる。またアダムスの隠れた能力は、母国語の他に少なくともオランダ語、ポルトガル語、日本語が話せる言語能力だったと思われる。日本語については、金地院崇伝の「異国日記」に出て来る通り、イギリス国王の国書をカナ書きで日本語に翻訳できる程であった。

また、サン・ブエナ・ベンチュラ号ではないが、このアダムスが最初に建造した80トンほどの西洋船は、当時、完成後に江戸に回航され浅草川(現在の隅田川)の入江に係留されていて、江戸で大変有名だったようだ。ウィリアム・アダムス即ち三浦按針の当時の江戸屋敷は、現在の日本橋川を日本橋で渡った中央通りの北の橋詰め、即ち昔の中仙道の日本橋々詰めのすぐ東にあった。今でも「按針通り」の名称がある。ここは当時の浅草川、即ち隅田川迄1.4km 程の場所だから、80トンの船は現在の永代橋付近に係留されていたとも考えられる。おそらく徳川家康も、ここで完成した船を検分したのだろう。

当時慶長19(1615)年に三浦浄心により書かれた『慶長見聞集』と題する随筆集の巻之九に、「唐船作らしめ給ふ事」と題しこの船の事が書かれている。三浦按針の名前こそ出てこないが、徳川家康が作らせ浅草川の入江に繋がせていた唐船、即ち西洋型船は、アダムスと仲間達が中心になって作ったこの80トンほどの西洋船に違いない。いわく、
昔見た事である。慶長年中に家康公が唐船(筆者注:西洋型船)を作らせ、浅草川の入江に繋がせていた。こんな大船を作り海に浮かべる事は、汀では人力も及ばないだろう。どんな方法で浮かべたか、道理が分からない。・・・昔、実朝の時代に鎌倉の由井ヶ浜で唐船を作らせた。・・・ようやく唐船が出来上がり、その船を進水させようと建保5(1217)年4月17日数百人の匹夫を動員し、その由井の浜に浮かべようとした。実朝公も出掛けて監臨した。信濃守行光が采配を振るい、全員がこの船を引いて午の刻(正午)から申のななめ(午後4時過ぎ)になっても進水できない。・・・将軍も見捨てて帰ってしまった。この船は期待通りにならず、砂の上に朽ち果てたという。・・・人々は船を陸上に作る事のみを考え、海に進水させる事をわきまえなかった事は愚の至りである。・・・先年作らせた浅草川の唐船は、伊豆の国、伊東という浜辺の田舎に川がある。これこそ唐船を作るべき地形だと言ってその浜の砂の上に柱を敷き台として並べ、その上に船の敷きを置き、半作りになった所で砂を掘り上げ、敷台の柱を少しずつ下げ、堀の中に船を置き、この船を海中に浮かべる時になって河尻を堰き止め、その川水を船の有る堀へ流し入れ、水の力を持って海中へ押し出す。この巧みを昔、鎌倉の人は知らなかった様だ。

この様に鎌倉時代の失敗例と比較し、この造船場所や造船方法を、興味深いタッチで述べている。

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05/15/2020, (Orginal since 05/22/2018)