日米交流
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History of Japan-US Relations in the period of late 1700s and 1900s

佐久間象山とペリー提督

ペリー提督の初回来航時に信濃松代藩士・佐久間象山は江戸に居たが、その素早い行動と、事実に基ずく正確な情報収集と適切な判断で松代藩首脳部に進言し、老中を務め、自分自身を抜擢してくれた前藩主・真田幸貫以来の幕府に対する忠節を尽くそうと率先努力した。しかし藩内の勢力争いの為、一時不名誉な扱いも受けた。この様なペリー提督来航時の佐久間象山の関りと、その活動の顛末を述べたい。

 佐久間象山、浦賀に急行

佐久間象山は嘉永6(1853)年当時は江戸に出て居て、松代藩の上屋敷に比較的近い、江戸の木挽町(筆者注:現、東京都中央区銀座5丁目13ー11)に住み、私塾を開き、砲術と経書を教授していた。この時に突然、嘉永6(1853)年6月3日の午後1時頃、ペリー提督率いる4艘の黒船が浦賀にやって来たのだ。


初回、浦賀に碇泊した4艘のペリー艦隊の概略位置
Image credit: Basic map: Google Earth. 位置は筆者が追加。

佐久間象山の「浦賀日記」によれば、翌日6月4日の夜明け頃木挽町の自宅に「黒船来襲」の注進があった。直ぐに藩の上屋敷に出頭し、ご用番へ届け出て、足軽2人を連れ浦賀に向かった。松代藩の上屋敷から浦賀迄直線距離で50q程ある。江戸から金川(=神奈川)迄陸路を取り、金川で船を雇って浦賀に向かい、南風に逆らって行きつ戻りつしたが、横須賀の東端・大津に上陸し山を越えて夜の10時から11時頃には浦賀に着いた。ここで若し上陸せずに、そのまま船で観音崎の岬を回り浦賀に向かっていれば、停泊中のペリー提督の艦隊と鉢合わせをした位置関係にある。

浦賀では以前から知っている小泉屋と呼ぶ旅籠に宿を取り、主人から情報収集をした。象山はこの宿の主人から聞いた黒船到着時の様子や、翌5日の早朝と夕刻に自身で山に登って双眼鏡で観察した情報等を、松代藩の江戸詰め家老・望月主水宛に報告している。山を登って鴨居から観察すると、夕刻には西日に照らされ鮮やかな艦隊の姿をはっきり観察でき、船中で演奏する音楽が聞こえ、その緩急徐疾はオランダ練兵のものと良く似ていた。この6月6日付け報告書簡いわく、

日々毒熱に御座候処・・・(筆者注:前段略)。蒸気船の速さは言葉では言い表せられない程で、松輪崎に異船の帆影が見えるやいなや、矢を射るように走り来たった。彦根候の台場からも乗り留めようとしたが、追い付けなかった。第一番に来た船は浦賀港を過ぎ、鴨居の辺りに錨を下ろした。続いて帆船が一艘来たが、これは先に来た蒸気船が引いて来たものの様であった。その後引続き蒸気船一艘と帆船一艘が来て、合計四艘が浦賀港より江戸の方へ縦に並んで碇泊した。これ迄来た船とは打って変わり、乗組員も特に驕慢の様子である。これ迄異船が来る都度与力が乗船して見聞する事が旧例であったが、この度は同心、与力などの軽輩は乗船を許されず、奉行なら乗船させると言って、船に近づく者は手真似で去らせた。強いて近づけば鉄砲を出して発砲しかねない勢いであったから、一番船に向かった与力はそのまま引き返し、彦根候の持ち場から強いて乗船しようとした者が居たが、空砲ではあったが二発発砲され恐れをなして引き返した。国籍はと尋ねたが、宿の亭主には不明であった。

五日早朝に起き出して東浦賀より山に登り、鴨居と言う所の東に向った場所から一見したが、浦賀港口の東南十六、七町の所に大砲廿八門を備えたコルベットと言うべき船一艘が停泊し、その東北四町程隔てて所謂蒸気船で、その形はコルベットに比べ殊に大きく、比べると五と三との如くである。コルベットも大略の寸法は長さ二十四、五間ありそうである。蒸気船は四十間ばかりと思われる。その東北に同様蒸気船一艘。これは先の物に比べ稍大きく見える。何れも船腹に車輪を備えている。その輪の大きさは径六、七間である。蒸気を生ずる為の筒と見える物が径五尺ばかりで、弦より三間余り高く突き出した物が有る。大砲の数は車輪の前に四門後ろに弐門で、これは砲窓を開いてあるので良く分かった。その上に六門、これは砲窓を閉じていたのでかすかに見えた。従ってこれも二十四門を備えている様に思われる。それより同じく東北に当たり砲廿八門のコルベット一艘。船と船との間はいづれも四町ばかり並びよく隔て、左右にコルベット中に蒸気船二艘を置いている様子。この船の結構(=構え)から如何にもきらびやかである。乗り組みの人数は四艘合せて二千人ばかり。船印は( Flag ) この様なもので、角の黒白は俗に言う一抹と言うものに見える。持参した望遠鏡は格別に良い物ではないので、詳しい事は不明で、詳しくは後便で報告します。(筆者注:上の船印( Flag )にマウスを載せると拡大します。アメリカ合衆国の国旗である。要:ブラウザーのスクリプト・ブロック解除)

それより旅宿に帰り、浦賀役場(=奉行所)の手筋(=手づる)を求め、異船来着の始末を聞き込んだが、皆は此度は事件になると覚悟を決めている様子である。与力中島三郎介(=助)と言う者が和蘭通詞堀達之助と共にその主船と見える船(浦賀の方より第三、江戸の方より第二)に乗り寄せ、拒絶されたが強いて乗り込み、どこの国から何の用で来たのか質問したところ、北アメリカの内ワシントンであると答え、さてこの度の用向きは江戸へ直接行く事であるから、お前達の厄介にはならず、通詞も居る事だから不要であると言い放ったと言う事である。その通訳をした者は全く通詞であるようだが、本邦語を操る様で、長崎人などの如き音声だったという。その外辮髪の人も乗り組んでいるようだが、清人と思われる。これは漢文往復のために備える考えの様である。

昨年来公辺よりここにお達しが下されたのは、和蘭国の書簡でさえ今後は取り上げる事も無く封のまま返す事に定めたので、異国の文書類は全て取り上げる事の無い様にとの事で、この度の異船をも彼等が言う様に内海へ入れては済む事ではない。また持って来た国書をも浦賀奉行へ直接渡す事にしたならば、そうすべきと言う所を、兼ねてのお達しもあり、奉行が直接受け取る事は一大事の事であるから、一昨夜与力香山栄左衛門がその伺いのため早舟で出府した様である。

夷人が言うには、若し此度国書を受取らないなどという事になれば、きっと乱暴をして帰るなどと言い出したとの事。そんな状態だから下曽根殿なども家来両人に非常の心得で来るように申し送り、また、奉行戸田殿もいずれ事件になるから、その時夷人の手にかかるのも無念だから寺で自害しようと寺の掃除を命じたとの事である。寺に行くよりは、免(まぬか)れても充分でない事を悟ったら、奉行屋敷に火を付け自殺する方が良いと言うのが愚見である。浦賀商家でも銘々逃げ出そうとして長持ちやその外の家財を持ち運びするなどもしばしばある。

夷船もまだ四艘やって来るなどと夷人どもが言っていると聞いた。何れにも此度は容易に終わりにはならないと考える。彼等が言うにまかせ要求をご許容になれば、それを例としその他の国よりも兵威を盾に要求する所があり、夫れをも夫れをもご許容なされば、本邦はやがて四分五裂する事は目前の事であり、よもや此度はご許容は無いであろうが、去りとて軍艦を四艘も八艘も用意して渡来し条件次第では乱暴もすると言い出したのだから、ご許容が無ければただでは帰らないであろう。畢竟此度の様な事が起こったのは全く真のご武備もなく、近年江戸近海の新規御台場などの築造があっても、兼ねて申上げてある通り、一つとして法に適いしっかり異船の防禦になるものが無いと考えた者より見れば、一見してその技量の程を知られる事もあり、且つ大船もなく砲道も極めて疎いと見込んでいる事と思われ、どんな乱暴に出るかも計り難い。浦賀の地などへの乱暴はどの程度の物であっても高が知れているが、内海に乗り入れお膝元へ一発も弾丸を放つ事があったら、大変と言うだけではない。後患に貧着(とんじゃく)せずに此度の事を許容するか、または戦闘に及ぶ事になると懸念しても拒絶するかは廟堂の御計らいであり、私共の了見の及ぶところではない。何れの成り行きになるべきか計り難い。ご人数配備の手当てを第一に、万一の節は御前様方のお立ち退きのご用意までもなさる様にとお願いする。それら一々お手配成され、不要になればこの上もない恐悦の義と思う。何分にも御手違いの無い様にお願いする。此の段、早々申上げます。以上。
        六月六日
致堂老臺執事
猶々この手紙を書いている内に、明七日迄に国書受け取りをするか否かの挨拶が無ければ、大砲で打払うと言って来たとの事。奉行屋敷より確かに聞いた。この様子では私も早速帰る事にします。以上。

佐久間象山が鴨居から観測した4艘の軍艦は、旗艦・蒸気軍艦・サスケハナ号、蒸気軍艦・ミシシッピー号、帆走軍艦・サラトガ号、帆走軍艦・プリマス号であるが、この様な精力的な行動でいち早く正確な報告を上げている。そして江戸詰め家老・望月主水へ早急な人数手配、避難計画などを進言し、手違いなく実行する事までをも注意し念を押している。

この報告書簡の最後に出て来る「新規御台場などの築造があっても、兼ねて申上げてある通り、一つとして法に適いしっかり異船の防禦になるものが無いと考えた者より見れば・・・」は象山自身を指し、嘉永3(1850)年4月に書いた「沿岸防備の不完全さを指摘する幕府宛の意見書」を示唆するものである。この意見書はしかし、当時の藩主・真田幸貫の注意により差出すのを見合わせたものであるが、自身で相州と房州の主要な台場に行き現場を見た限りでは「一ヵ所も実用になるものは無い」と述べ、浦賀を守る砲台だけ残し他の全てを引き払う。その上で150ポンドから24ポンドの大型大砲80挺あまりを品川沖の洲に設置し、同様に佃島前の洲にも設置する新規台場群を築造すべきであると提案するものであった。先回りして述べれば、この後に国書を渡したペリー提督が退帆した後、江川太郎左衛門が中心的役割を担って完成する品川近辺の 内海台場築造 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)の原型案であったわけだ。

以上の手紙を足軽に託して江戸へ届けさせた佐久間象山はこの後で、一艘の蒸気船が観音崎を乗り越えて内海に入ったと言う情報を聞いた。江戸府内では恐らく大騒ぎだろうと思い、殊に松代藩のお屋敷の事が気にかかり、象山は急遽また大津から船を雇って江戸に向かった。途中雇った船の上からこの蒸気船が二艘の端艇を使って測量する行動を直接観察し、蒸気軍艦が東に向かいまた戻って来た行動も確認した。これはサイラス・ベント大尉の指揮する2艘の測量ボートと蒸気軍艦・ミシシッピー号である。象山は途中で又船を乗り換え、夕方六時過ぎに帰宅した。報告のため直ちに藩邸に出向き報告をしたが、その時の行動は次の様なものある。

 佐久間象山の防衛準備と落胆

嘉永6(1853)年6月6日の夕刻六時過ぎに浦賀から自宅に帰着した象山は、直ちに松代藩の上屋敷に向かい、藩主・真田幸教や江戸詰め家老・望月主水に会い、自身の観察と対策を進言した。今回蒸気軍艦一艘が内海に乗り入れ測量をした沿岸では、沿岸警備をする諸藩からは目立った抵抗も無かった。この様子では近々彼等夷人は悪事に及び兼ねず、そうなった時の対応として、藩では大小銃や弾薬の用意が最重要になると申し立てた。藩主は尤もな事だと言い、早速家老の望月主水に準備を命じ、象山に更に別の考えがあれば述べる様に促した。そこで大砲の準備とその運用について、大砲御用掛りや運用頭取の任命を進言し、自身の弟子の中から熟達者を選抜した。

更に考える所があり、3日後の6月9日の早朝、家老・望月主水を訪ね次の様な進言をした。いわく、

さて、感応院様(筆者注:老中も務めた前藩主・真田幸貫)は終身外寇の件に付いてはご苦労をされ、ここ江戸藩邸で大砲を製作され、地元の松代から取寄せた事もある。これは今回のような非常時に備え公辺の警衛にもなろうかと言う思召しであろうと思われる。近々防衛のため諸藩にも出兵の要請が出される事もあろうかと思うが、黙っていても我がお屋敷には数挺の大砲がある事は公に知れているから、今日にもお固め場への出兵を命ぜられるかも知れない。若し又異船が内海に乗り入れ乱暴を始めたら、防禦を命ぜられる事は必然である。

しかし大砲の運用は地勢による事は軍事の要点であるが、公辺では火急の場合、大砲を多く持つ藩はここ、少ない藩はあそこと精密に指図する事は決して出来ない。そうなれば、場合により大砲の運用の難しい場所への出兵の命があるかも知れず、その時は感応院様が終身ご苦労をされ造り立てた武器も有って無きが如くに成ってしまう。その時地の利をも考えず大砲など引き出し、万一誤って賊に奪われ賊よりその筒で打立てられる様な間違いがあれば、利を失うのみならず、永久に御家・真田の瑕瑾になる。

従って大砲を用いるには先ず地の利を選ぶ必要がある。私は兼ねて思慮を巡らしてみたが、府内を焼き払わない限りご府内に最も近く砲を運用できる場所を選ぶ時は、御殿山近辺以外にはない。異船が乗り入れた時ここはその要所になり、防ぐに便利である。この場所を決め、今回防禦を命じて頂きたいと幕閣に内願する時は、第一には感応院様に対しご誠忠の思召しを継ぐ事でこの上もないご孝道になり、公辺に対しては夷賊衝突の場所を受け持つ事になり忠節になる。また御家中の面々が国家天下のためにその身を捧げる事は勿論の事であるが、無謀に行動し肝脳を地にさらすのも痛ましい事である。私が申上げる場所なら、砲を放つのにも敵砲を避けながら発砲する手段もあり、またお上がご出馬されてもこの場所なら、洋名をボムフレーと言い、敵のボンベンでも危ない事も無い小屋の製法もある。早速これを造らせその内へお上にお入り願えば、かえってこんな事がある時は、お屋敷御殿に居られるよりはご安心が出来る。この上下内外万全の策を取るべき時にこれ以外にはありません。

この様に明理を尽くして進言すると、家老・望月主水は至極の事であると合意してくれた。そこで早速象山の言うには、自分を幕閣への正規使者に同道する御内使者に任じ、老中首座・阿部伊勢守なり海防掛・老中・牧野備前守なりへ派遣して貰えれば、細部は臨機応変に自分が説明役を務めると提案し、家老は藩主の裁可を得て正式に受理された。そこで直ぐに阿部伊勢守宅と牧野備前守宅を訪問し御殿山守備の内願を伝えたが、阿部伊勢守からは内願の筋は尤もであり道理にかなっていると言われ、評議のために正式な口上書を差し出すように言われ、提出した。更に藩主・真田幸教からは軍議役を命ぜられ、砲術に付いて全員が象山の門下に入り、象山に砲術隊の組織を命ぜられた。早速御殿で入門式が行われ、馬場へ出て大砲の装法や打ち方の教授が行われた。

象山はこの様な対策を6月9日の1日の内に立て続けに行い、阿部伊勢守からの内諾迄も取り付けている。人並みならぬ実行力である。一方のペリー提督はこの日、9日、久里浜に上陸し、日本側にフィルモア大統領からの国書を渡した時であるが、勿論これはまだ佐久間象山にとって知るすべもない。


「江戸切絵図」中の「シミツヨコ丁」と「テッホウサカ」の文字
Image credit: National Diet Library Digital Collections.


旧東海道・旧清水横丁入口への角「魚武」の壁にある
清水横丁説明板(東京都品川区北品川1丁目24-4)

Image credit: Google street view (Jan. 2021).

翌日の6月10日には、幕府から何時出兵の命令が来るかも知れず、御殿山は7日夕方には幕閣から既に福井藩の持ち場として指定されていたから福井藩との調整もせねばならず、出兵に備え自分で御殿山の視察に行く事にした。東海道の品川歩行(かち)新宿の北側にある清水横丁から御殿山に向かい鉄砲坂を上ると、その左右には出兵した人数を待機させるに都合の良い屋敷があり、福井藩の現地責任者とも調整をし了解を取り付けた。砲術家・佐久間象山の名前は福井藩でも良く知られていて、逆に助言さえも求めれた。福井陣でペリー艦隊の動静を聞くと、昨日、9日の夕刻から4艘の異船が全て内海に入り、その内の1艘は生麦の近くまでも侵入した事を聞いた。生麦は東海道の金川より少し江戸寄りだから、この情報に更なる危機感を抱いた象山は汗馬にムチを当て藩邸に駆けて帰り、御殿山の地形の見積りや異船が深入りした状況を報告した。どう展開するかもわからない明日に備え、御馬奉行へ、明早朝に拝借する馬の準備を頼み家に帰って休息した。

一方のペリー艦隊は9日に久里浜で国書を手渡した後、2日間に渡り内海の停泊候補地域の測量を行い、生麦辺りにまで測量の手を伸ばして測量を強化し、次回来航時の停泊地決定に備えた。国書を手渡した後も退去の様子を見せないペリー艦隊に対し、浦賀奉行は再度組与力・香山栄左衛門を派遣し退去を迫ったが、香山栄左衛門は10日の夜は夏島の陰にもやった船の中で一晩を明かし、翌日は早朝から退去の交渉をした。ここでペリー提督は11日には大津沖に集合し、翌12日の退去を約束したが、勿論これは佐久間象山にとってまだ知るすべもない。

象山は翌11日早朝4時頃には朝食をすませ出発の準備にかかったが、老中・牧野備前守の家中からの情報がもたらされ、今にも八重洲河岸で早半鐘を摺り(=打ち鳴らし)、異船侵入の警報が出るかも知れないと言う事が伝えられた。象山は、早半鐘が打たれても直ぐ打払いの戦争が始まるわけではないだろうが、念のため家族には、早半鐘で市中の大騒動が始まろうがそれだけで避難はしない様に。また大砲が三発四発打たれても信号の発砲だろうからまだ避難はしない様に。十発以上大砲が打たれた時は武力衝突の可能性があるから、避難路をこの様に取って、と細かく指示を出して藩邸に急行した。上屋敷では藩主と家老に老中・牧野備前守からの情報を伝え、直ちに馬に乗り大森村を固める毛利家の陣まで来て異船の行動情報を聞いた。昨日は本牧辺りに迄来たが引き返し、今はもっと南に船掛りしているとの事であり、早速上屋敷に帰った象山は報告を済ませ、以降は砲術隊演習の世話を行った。

ペリー艦隊では嘉永6(1853)年6月12日、4艘の黒船全てが約束通り退帆した。こうして、松代藩から幕閣に願い出てあった御殿山への出兵命令も無く静かになったが、しかし、佐久間象山には思いもかけない災難が降りかかった。この間に松代藩の上層部の重役や役人達は、要請してあった兵士も出して来なかったが、信州松代の地元から家老・鎌原伊野右衛門と郡奉行・長谷川深美が出府して来て、6月24日に佐久間象山は、いきなり海防御人数臨時出役と軍議役の御免を言い渡された。更に藩士達への砲術教授についても不要になったと通告された。そしてもっと不思議な事は、ペリー艦隊侵入時には象山の献策を「もっともだ」と言って素直に採用した江戸詰め家老・望月主水からも、暫らく象山との往来を止めたいと言って来た。これは長谷川深美の勧めだと言う確証があったが、その間には筆紙に盡せないドロドロした事があった。象山は国家の一大事だと、人払いをしていない公開の席で藩主・真田幸教に会い直言をしようとしたが、これも上手く手を回した家老・鎌原伊野右衛門のために阻止されてしまった。そして7月5日になると「江戸住居を仰せ付けられていたが、その方の内願の通り、直ちに御在所へ帰郷する様仰せ付けられた」と帰国命令も出されたのだ。保守派から、江戸に居たら何をしでかすか分からない男だと危険視されたわけである。

これは明らかに策謀に見える。前松代藩主・真田幸貫が藩改革を進めて以来内部にくすぶる、佐久間象山の属する開明派と筆頭家老・真田桜山、家老・鎌原伊野右衛門や郡奉行・長谷川深美などが属する保守派の派閥抗争の顕在化であった。真田幸貫の改革により藩財政は窮乏し、更に弘化4(1847)年3月の善光寺地震の被害も非常に大きなもので、藩では高額の借金もしたほどの財政難であった。保守派の中心である筆頭家老・真田桜山、家老・鎌原伊野右衛門、郡奉行・長谷川深美などは、6年前のこんな地震被害からの復興も充分で無いのに、大砲隊を組織した松代藩が進んで御殿山へ出兵するなどとはとんでもない事だったのだろう。藩財政の窮乏を盾に、開明派の中心人物の一人である佐久間象山を狙い撃ちした様にも見える。その後この佐久間象山の帰郷命令は、幕閣のとりなしで中止になった様である。

 横浜の佐久間象山

安政1年1月14日、即ち1854年2月11日、ペリー艦隊がまた次々と江戸湾に入って来て、1月16日には7艘の軍艦が湾内深くにある小柴沖に勢揃いした。日米で応接地を何処にするかという駆け引きがあったが、2月1日、浦賀組与力・香山栄左衛門が横浜を提示し、ペリー提督側の合意を取り付けた。こんな背景で幕府は横浜に新しく応接所を移築し、沿海を警衛する諸家とは別に、松代藩と小倉藩とに応接所の警衛を命じた。そこで松代藩では2月6日の朝10時頃、江戸詰め家老・望月主水を総奉行とした、洋銃を持った銃卒24人を一隊とする4隊を横浜に向け出発させたが、この警備隊には30人で運用する大砲5門が付き、更に小倉藩の陣近くで鉄砲が使えない時のために長柄の槍40筋と長巻20振も携帯した。長巻は大太刀に長い柄(つか)を付けたものである。佐久間象山は再び軍議役として参加した。

川崎宿に到着すると応接の警備全般を統括する浦賀奉行・伊沢美作守から、火器の類は大小に限らず人目に付かぬようにムシロに包んで横浜に持ち込むようにとの指図により、大砲や鉄砲は直接見えない様に全て包んで運送した。象山がその訳を尋ねると、アメリカの艦船からは性能の良い望遠鏡で東海道を観察していて、どんな武器を持っているかたちどころにその色まではっきり分かるから、大砲などの武器を持ち込んでいるという不必要な刺撃を避けるためであった。初期に出来た望遠鏡はレンズによる色収差があり、正確な色を見るには難があった。しかし18世紀の中頃、イギリスのジョン・ドロンド(John Dollond)が色収差を減らしたレンズを造り、望遠鏡に応用された。ペリー艦隊ではこんな高性能の望遠鏡を海軍用として使っていたのだ。ちなみに、『ペリー提督遠征記』には「ドンド」ではなく、「ドンド望遠鏡(Dolland's telescope)」と記述されている。

象山は江戸を本隊より1日遅れで出発したので、7日の夜は神奈川宿に泊まったが、以前浦賀で大砲を教えた事のある浦賀奉行所・同心が尋ねて来て、黒船に関する情報交換をしている。翌日の8日はこの浦賀同心の手配で浦賀奉行所の御用船に乗り、神奈川から横浜まで9人のかこが漕ぐ早舟で渡ったが、スピードが速く、瞬く間に横浜に着いた

2月10日は横浜応接所に於ける日米の最初の応接日である。軍議役として参加した佐久間象山は、午前10時頃迄には松代藩の警備人数の配置を終わっていた。何とか応接の様子を知りたいものだと思ったが、応接所警備をする松代藩のお固め場は応接所から200mも東側に寄っていて簡単に内部の様子は分からなかった。ところが日本側交渉委員の1人で警備全般の統括者である浦賀奉行・伊沢美作守から松代藩主・真田幸教に、松代藩お固め場に出ている藩の医師で画家の高川文筌を伊沢美作守付き医師として派遣してくれる様に正式な依頼があった。そこで藩主・幸教は喜んでそれに応じ、佐久間象山にも  高川文筌 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)や伊沢美作守の近習に交じって応接所に入り、図どりをする様に命じた。こんな背景から象山は応接所内に入り、ペリー提督をまじかで見る事が出来、自ら観察した情景の概略を10日付けの手紙に書いている。いわく

正午頃、上陸した兵士達の並び方は調練の様に並んでいる所へ、本船からバッテーラを1艘降し数人が乗り込みたちまちに着岸したが、先ず上官が応接小屋前の広場に上陸し歩卒へ下知すると、およそ五百人程の群衆は形の如く隊伍を整えたが、その壮観さは例え様も無かった。これは西洋では通常の事で、良く知られている事である。まだ知らなければならない事は、応接場の中の事である。先ず饗応の席は広大な場所である。上の方に二間四方の座敷があり、これは密談所と言う所で、三方に三尺程の床があり、残らず毛氈をかけてある。さてその間を士分の者四十四人、外に随者四、五人、これは黒人であるが、これらの人が入室し夫々床に腰を掛けた。御役人方が御出座し同じく腰掛け、御通詞対面の一礼があり、それより茶、煙草盆、菓子等もあった。菓子はカステイラアルヘイだったが、皆は大喜びの様子で残った物を紙に包んでいた。これが済むと例の密談所にペルリ始め五人が案内されて通り、林公始め井戸公、伊沢公、鵜殿公、松崎公が出て長い時間が経った。これは極密談の事で一向に外には分からなかった。その間三十九人の人々へは吸物、口取り、刺身と御酒が出されたが、酒の辛いものを嫌い、養老酒を好んで飲んだ。刺身は少し食べたが他の物は好まなかった。文筌は頻りに写生していたので彼等も珍しく思ったのか、文筌の傍らに来て写生したものを見せてくれと手真似をしたので見せた所、殊の外喜び上手上手と日本語で褒めた。中には自分の肖像を頼みたいと手真似したので意に任せて描いてやると、皆大喜びをして署名してくれと頼んだので「文筌写」と書いたら、これは何と書いたのかと聞くので「ぶんせん」と言うと、英語でそれを書き付けて、言葉でも良く覚え「ぶんせん、ぶんせん」と言ったが、これは大変珍しい情景だった。その外種々の珍しい事もあったが急ぐので書かない事にする。さてさて思いの外穏便な者だったが、オランダ人よりは一回り大きく、丈も高く肉も随分付き太っていた。四百人程のゲベル組を一人で自由に動かす事は珍しくはないが驚いた事であった。ただ聞くべからざるものは音樂である。これは本当に嫌いだったが、人は面白がっていた様だった。これはさて置き、応接の一つ密談に付いては如何にも深い意味がある様に見える。何れ交易を許す事には相違ない様子であるが、(□、3字不明)手段の面白い事でもあるのか、彼の者共は帰りの時も皆がささやきあって喜んでいる様に見えた。また君公(=藩主)より命ぜられた図取りの事も御用を達したが、御家士は上陸の時に内々に窺見(うかみ)をしただけであった。今日は公式返書は渡さずただ礼を述べただけで終わった様子で、後にも返書は無いと思われるが、この理由は例の密談所にあると思われる。我が藩の御固めは遥か二丁程離れた場所にあるが、御幕張もただ一張りが小倉候の持ち場との境界に張られたばかりで、一般人は見えなかった。皆人家の陰に集まっていたが奥深い事と思われる。さりながら、ゲベル組こそ目前に備えた所を見せたいものである。道中の評判は殊の外よく、小生なども快然の至り(=気分が良い)だった。小倉候は悉く幕を張り所々に集まっていたが、手薄の様にも見えた。殊に鉄砲も三五位の和筒であって、夷人共が見せて呉れる様に言うと、国禁だからと言い訳して断った。これもあまりに拙い事だった。彼の者共を恐れている等と言っていた。さてまたこの後も両三度も応接がある様子だが、今月中も掛るかも知れないと思われる。それにつけても高川は伊沢公の直属医師として頼まれたので、数度見極めれば図様に付いては詳しく完成出来るので大喜びであった。

横浜の応接所警衛のため松代藩の軍議役として出張していた佐久間象山は、上述の如く応接所の中で身近にペリー提督を見たわけだ。更に提督一行が船から応接所に上陸するにあたって使用したボートの中に、象山の見る所8ポンドばかりの大砲を1挺づつ積んだ12艘のボートが含まれていた。これはペリー艦隊のミシシッピー号に乗り組んでいたウィリアム・スピーデン・ジュニアの日誌によれば、12ポンドの  ホウィッツァー砲 筆者注:ここに戻るには、ブラウザーの戻りボタン使用)であったが、これを祝砲として数十発発射した。これを見た象山は「発砲の手際、至って宜しく御座候」と書いている。また上陸当日アメリカ兵達が象山などが浜辺て見ている所まで頻りにやって来ては、腰に差したピストルを手渡して見せてくれたが、それは6連発のピストルで、象山は「美事を極め候ものに候」と大いに感心している

佐久間象山はまた、アメリカからの贈り物が陸揚げされた2日後の2月17日の早朝と午後に応接所を巡警した。この時1人の異人が ダゲウロライペン(=ダゲレオタイプ・カメラ)を出して象山が乗って来た馬を撮影した。この日の日記にいわく、

異人がダゲウロライペンを出し自分が乗って来た馬を写した。傍らに浦賀同心何がしが居た。これにイオジウムを用いるかフロビウムを用いるかを聞かせようとしたが、自分で直に聞くように言った。そこでその器を指し、イオジウムかフロビウムかと言ったら異人が驚いた様子でフロミウムと答え、その器を撫ぜながら ダゲウロライペン と言った。直ぐにまた頷いてダゲウロライペンと言ったらますます自分がその名を知っている事を喜ぶ面持ちで、手を上げ自分を招いて親しくその器を見せた。大体は先年林鐡之助から入手したこの器の制作を記した書に載っているものに同じだった。ただしその匣はやや平めで、鏡(=レンズ)を入れる所は横に突き出した黄銅の筒である。その端に牝ねじがあり、鏡を写そうと思うものの遠近に従って替えて使うものである。やがて自分の姿をも写した。

この様に記述しているが、この象山の馬と象山の写真を写した異人はペリー艦隊、旗艦所属のエリファレット・ブラウン・ジュニアである。画家であり写真家でもあった。

こうして遂に林大学頭とペリー提督との交渉が完結し、安政1年3月3日、即ち1854年3月31日、「日米和親条約」が締結された。余裕が出来たペリー提督は6日後の3月9日、応接所前の浜辺に上陸し横浜村を散策した。この時も松代藩では応接所付近の警備にあたっていが、佐久間象山も同席していた。象山は夫人に次の如く書き送っている。いわく

一昨日ペルリが上陸した節、通り掛けに我らの前を過ぎた時、ちょっと会釈して通った。ペルリは一通りの人にはえしゃくはしないと言う事であるが、この様な事だったので、人々はかれこれ言っていた様に見えた。何も訳も無い事であった。

佐久間象山は日本人にしては人並み外れた大きな体で、風采も良く眼光も鋭く、周りに威圧感を与える様な人物であったと言われている。このためペリー提督も、散策に出発し象山に会った瞬間に威圧され思わず会釈をしたように言われている。しかし筆者は別の見方を取るが、第一に、上述の如く象山は2月10日の横浜応接所内に入って居て、ごく近くでペリー提督を見ているのである。当然ペリー提督も応接所内で、通常の日本人より上背があり体格も良く、眼光鋭く堂々としていたであろう象山が、特に印象に残ったのではないかと思うのである。更に、応接所内には限られた日本の高官しか入っていなかったから、そこで見た象山に浜辺でまた会い、前に見た事のある高官だと、象山に親しみを込めて会釈したのだろうと思う訳である。象山もまた会釈を返したはずだ、と期待している。

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02/01/2021, (Original since 02/01/2021)